第44回
京阪・文化フォーラム
京阪沿線の城と歴史発見
今回の京阪・文化フォーラムでは、京街道や京阪沿線の城にスポットをあててその歴史をひもとくとともに、城歩きの楽しさをご紹介。さらに大阪城城下町にあった八軒家浜船着場も取り上げ、城と川のかかわりを考察していきます。
- 令和元年10月26日(土)13時〜16時
- OMMビル(1階)グラン101・102
- [基調講演] 水と歴史と天下をつなぐ京阪沿線の城
−信長・秀吉・家康の足跡− - 高槻市文化財課主幹
中西裕樹(なかにしゆうき)氏
- [講演] 大阪城と天満橋・八軒家
- 大阪城天守閣 研究副主幹
宮本裕次(みやもとゆうじ)氏
城跡は、武将たちの夢の跡。当時の戦の様子をはじめ、その地での暮らしが浮かび上がり、歴史に思いを馳せることができます。
今回は天満橋にそびえるOMMビルの開館50周年記念企画として、京阪沿線にあった城とゆかりの武将たちの足跡や、八軒家浜船着場を巡る大阪城と川との関わりなどのご講演が行われました。
城跡を歩くことで見える歴史の側面に感嘆しつつ、八軒家のかつての風景に思いを馳せる。ロマン溢れるお話しが展開され、観客の方々も食い入るように聞いておられました。
■第1部:講演「水と歴史と天下をつなぐ京阪沿線の城 −信長・秀吉・家康の足跡−」
第1部は高槻市文化財課主幹・中西裕樹先生による、京阪沿線の城に関するご講演です。戦国時代の大動脈は、琵琶湖から淀川、そして大阪湾へと至る河川。その周辺は「天下」であり、その支配者は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という「天下人」でした。京阪沿線の城には、そんな彼らの足跡が多数残されているのだそうです。
「城」という字は「土」から「成る」と書きます。このようにもともと城は、大阪城に代表されるような立派な石垣で造られたものではなく、土を盛った土塁(どるい)で周囲を遮断する軍事施設でした。これを山城といい、全国では3万〜4万、大阪府下でも300ほどあったのだそうです。
宇治線宇治駅にある「槙ノ尾山城」と交野線交野市駅にある「私部城」も山城の部類。中でも「私部城」の跡を訪ねると、今でも住宅地に一箇所だけ畑がぽっこりと残り、ここに城があったことを伝えています。
その後、街や交通とのかかわりを求め、山城から平城へと移行。石山坂本線松ノ馬場駅の「坂本城」や、京阪本線神宮丸太町駅「旧二条城」などが平城の先駆けです。
ほどなくして織田信長と足利義昭の関係は悪化し、義昭は旧二条城に籠城。信長は和睦を申し出るも拒否され、義昭は反信長の兵を挙げることになります。しかし信長の攻撃により義昭は降伏。織田政権がはじまると、制海権と物資の掌握を念頭に琵琶湖や港の近くに城を配置しました。
その後、豊臣秀吉による城郭の再編が始まります。京阪本線淀駅付近の「淀城」、京津線びわ湖浜大津駅付近の「大津城」には、秀吉が頻繁に入城。主に西国で港湾との関わりを追求していくのだそうです。
そして時代は徳川家康の天下へ。秀吉のお膝元である上方周辺での地盤づくりを図り、築城を開始。構造の基調は四角で、白漆喰塗の外観に統一することで個性を問わない標準仕様化へと変貌を遂げます。城は天下泰平の舞台装置としての機能も果たすことになったのだそうです。
山城から平城へと移行し、港湾との繋がりや、地盤づくりの要など、さまざまな役割を持つようになった城。天下人たちの天下への思いが如実に現れ、改めて歴史の面白さに気付かされたご講演でした。
■第2部:講演「大阪城と天満橋・八軒家」
第2部は大阪城天守閣の研究副主幹を務められる宮本先生のご講演です。当時の絵画や地図、写真を使って、大阪城や天満橋、八軒家はどのように扱われているか、そしてどのように関わり合って現代へと移り変わっていったかを、スクリーンを用いながら分かりやすくお話しいただきました。
まずは屏風絵に見る景観について。豊臣時代において八軒家付近は城内であり、天満橋は天満を城下町化する役割を果たしていました。大阪城天守閣蔵の「大坂城図屏風」とオーストリア・エッゲンベルグ城蔵の「豊臣期大坂図屏風」を見比べながら、八軒家と天満橋の当時の風景を辿っていきます。エッゲンベルグ城蔵の屏風絵には船や陸揚げの風景、通りを行き交う人々の姿が実に生き生きと描かれ、八軒家は外港の役割も担っていたのではと推測。大阪城天守閣蔵の屏風絵では豊臣時代の城下町の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
そんな繁栄から一転、大阪城天守閣蔵の「大坂冬の陣図屏風」や「大坂夏の陣図屏風」では、八軒家付近に施された柵で徳川軍の攻撃に備えているなど、天満橋が焼き落とされ混乱の渦であった様子がしっかりと描かれます。
大坂の陣の後、江戸時代初期には天満橋・八軒家は城外となり、都市の港へと変化。個人蔵の「大坂市街図屏風」には「八けんやはたご町」という文字も確認でき、八軒の宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれるようになった経緯もうかがい知れます。
また湯木美術館蔵の「浪華名所図屏風」には八軒家沿岸の街並みや、にぎわう往来が描き込まれるとともに、八軒家浜の象徴的な風景である浜の石段(雁木)や左右の護岸石垣も丁寧に描かれています。
一方、絵図や地図からは、天満橋・八軒家が淀川上流からの土砂の堆積や水害対策による、水との格闘の様子も読み取れます。水の逆流を防ぐために石垣を設けたり、浜先に堤防を施したり、通水口を設置したりと、天満橋・八軒家付近にてさまざまな対策がなされ、変貌していく様子が、残された絵図や地図からうかがい知れるのです。
そして近代。明治維新後に河川での移動が衰退し、鉄道や自動車が主流になっていくとともに八軒家や天満橋周辺は大きく変容します。明治には天満橋は場所を移動して鉄骨化され、昭和初頭には八軒家船着場は埋め立てに。元の河道も埋め立てられ、現在のOMMビル、京阪シティモール、大阪キャッスルホテルの建つ場所が造成されます。そんな中、平成20(2008)年に雁木や燈籠など当時の姿を擬えた八軒家浜が復活したことは、当時の様子が再現されたようでうれしいものです。
大阪城探訪の起点として、天満橋・八軒家浜を歩くのもまた意義深いのではないか。そんな楽しみ方もご提案され、大きな拍手に包まれてご講演が終了しました。
京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。
- 京阪グループ開業110周年記念事業「記念フォーラム」
- 第44回 京阪沿線の城と歴史発見
- 第43回 明治維新と東海道五十七次
- 第42回 花と建築 建築と華
- 第41回 今、なぜ明治維新なのか。〜西郷どんの実像〜
- 第40回 東海道五十七次と大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
- 第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い
- 真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—
- 第38回 国宝 石清水八幡宮本社
- 真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!
- 第37回 馬と人間の歴史
- 第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦
- 第35回 中世の京都町衆と祇園祭
- 第34回 彩られた京都の古社寺
- 第33回 水辺の歴史 大川沿いにある大坂の陣戦場跡
- 第32回 神に祈った武将たち -石清水八幡宮と源平・足利・織田・豊臣・徳川-
- 第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-
- 第30回 信仰とお笑いの狭間に落語
- 第29回 平清盛と平家物語
- 第28回 葵祭
- 第27回 酒は百薬の長 落語は百楽の長
- 第26回 今に生きる熊野詣