京都の夏の風物詩として知られる祇園祭が冬に行われたこともありました。「中世の京都町衆と祇園祭」をテーマに、町衆と幕府・社寺の勢力関係を解き明かします。
- 平成26年6月21日(土)13時~16時10分
- 京都教育文化センター(京阪・神宮丸太町駅下車 東へすぐ)
- [講演] 「雪ふるなかの祭 —町衆の祈りと室町幕府—」
- 歴史学者
下坂 守(しもさか まもる)
- [講演] 「中世の町と祇園祭」
- 立命館大学教授
川嶋 將生(かわしま まさお)
- [対談]
- 歴史学者
下坂 守
- 立命館大学教授
川嶋 將生
京都の7月は祇園祭で町がにぎわい、特に絢爛豪華な山鉾が市中を練り歩く「山鉾巡行」がハイライトとして有名ですが、今年は49年ぶりに、後祭が復活するとあって話題になっています。また、1864(元治元)年の禁門(蛤御門)の変で焼失した大船鉾も150年ぶりに巡行します。
京都教育センターで開催された今回の文化フォーラムでは、町衆の大切な祭として続けられてきた祇園祭が、長い歴史の中で社寺や幕府から受けた影響や、中世の町の形成との関係などについて、さまざまな文献を元に考察がなされました。
話題の祇園祭に興味を持たれた多くの方が参加され、第1部、第2部は講演、第3部ではトークセッションが行われました。
■第1部
第1部は歴史学者の下坂守先生による講演「雪ふるなかの祭り」です。平安時代に由来を持つ祇園祭は旧暦6月に行われていました。ところが、いくつかの文献には室町時代の26年間の間に10回ほど、12月に行われたことが記されています。
祇園祭というのは本来、八坂神社の3基の神輿(当時は大宮、八王子、少将井と呼ばれていました)が、神社を出て町中を練って御旅所(おたびしょ)に鎮座し、また町中を練り歩いてから神社へと戻っていく神事、神幸祭と還幸祭のことを言います。御旅所の場所は今の寺町四条ではなく、東洞院高辻にある大政所御旅所と、東洞院冷泉の少将井御旅所の2カ所にあり、その巡行路も違っていました。ちなみにその頃の神輿は四条の橋を渡らず、その側に掛けられた専用の橋を通って鴨川を渡っていたそうです。
この6月の祇園祭の他に、4月の日吉祭(大津市・日吉大社)、5月の日吉小五月祭(同)、8月の北野祭(京都市・北野天満宮)の4つが京都・近江の重要な祭礼で、その背景では、朝廷、幕府、延暦寺の力関係が大きく影響を及ぼし合っていました。
まず比叡山延暦寺ですが、当時非常に力を持っていて、山訴(さんそ)、つまり延暦寺の僧(衆徒)による3段階の抗議行動がおこなわれました。1つめは「堂塔閉鎖」といって、延暦寺堂塔の扉を閉ざして祈りを止めること。2つめは「神輿動座」といって、日吉社七社の神輿を山上へと持って上がって祭りができないようすること。3つめは、それでも訴えが受け入れられなければ、「神輿降り」といって、日吉社の神輿を京都へ持ち込み、神輿の神様自らが朝廷に直訴するということをしたのです。
山訴が朝廷に受け入れられなければ日吉社の祭りが行われず、そうなると祇園祭も延期となります。記録を紐解くと、1447(文安4)年~1467(応仁元)年の20年間に山訴で延期となった祇園祭は11回、つまり2年に1回は延期となり、そのうち6回は12月に行われました。
ところで祇園祭はもともと疫病をおはらいする「御霊会」を起源に持ちます。1492(明応元)年にも祇園祭が延期になりましたが、6月14日の神幸祭の日には、祇園社(八坂神社)に多くの人々が参詣する様子が文献に書かれています。祭りの根底には、朝廷や延暦寺の駆け引きに関係なく民衆の祈りがある、ということになります。
そこで、幕府は「祭礼の年内執行の義務がある」として必ず12月には山訴を認めて年内執行を果たし、祇園祭を復興させます。そこには幕府と延暦寺の政治的取引があったことが伺えます。1500(明応9)年には、神輿の用意が間に合わず、かわりに榊を鉾に見立てて出しましたが、それでも大勢の民衆が見守り、市が出るほど盛況だったといいます。
幕府が直接関わりを持つ以前、将軍足利義満は神輿よりも山鉾の巡行に深く関心を持っていました。神輿が出てはじめて祇園祭(祇園会)となるわけですが、ある年、神輿の作り替えが神幸祭当日に間に合わず、山鉾だけが町中を巡行しました。義満はそれを見て祇園祭を見たことにしたのです。つまり義満は、それまで延暦寺の統制下にあった祇園祭のシステムを打ち破ったことになります。こういったことはたびたび行われ、祇園祭から民衆による山鉾の存在が強く打ち出されていくようになりました。
時代が変わり、延暦寺は織田信長によって焼き討ちに遭い、後に豊臣秀吉によって復興を許されましたが、その頃にはかつての権力はもはやなく、祇園祭は毎年決まった月に行われるようになりました。
■第2部
第2部は、立命館大学教授の川嶋將生先生による「中世の町と祇園祭」です。ここでは、平安時代以降の町の成り立ち、『年中行事絵巻』などから見る祭りの姿、山鉾の財政基盤についての話が展開されました。
いわゆる碁盤の目と言われる京都の町並みは、平安京の条坊制が元になっています。中世都市へと移り変わって行く中で町が区画整備され、4つの通りによって区画された「店(家)が並ぶ空間」を町(ちょう)とするようなりました。口の字型に並んだ店(家)の一辺を片側町といい、道を挟んで隣り合った片側町同士を合わせて両側町と呼び、これが祇園祭の山鉾町形成の基盤となったのです。
また、この町の形成が、当時8つあった氏子圏(上御霊神社、下御霊神社、今宮神社、北野天満宮、八坂神社、松尾大社、伏見稲荷大社、藤森神社)の形成にもつながっていきます。
次に、絵画に残されたかつての祭りの姿を見ていきました。
江戸時代に描かれた『年中行事絵巻(巻12)』を見ると、神幸渡御の中に、今では見られなくなった「馬長童(めちょうわらわ)」という馬に乗った子どもの姿が描かれています。非常に華やかで多いときには50人もの列を組んでいたようです。現在では奈良の春日まつり、おんまつりにのみ残されています。ちなみに祇園祭の駒形稚児は、馬長童を元にデフォルメされた形をとっているそうです。
また、他の絵画や文献を見ていくと、造作ものの山車である「造り山」、あるいは能や舞を行える移動式舞台のような「曲舞(久世舞)の車」など、山鉾の起源ではないかと思われるようなものが登場してきます。これらは将軍家にゆかりを持つもので、盛んに作られていたようです。
さらに『月次祭礼図模本』という、山鉾を描いた最も古い図本を見ると、今はない山鉾も描かれています。鵲鉾(かささぎほこ)、乗牛風流(うしのりのふりゅう)と呼ばれるもので、これらを出していたのが、現在の鉾町から離れた北畠(上京区)の町や西陣の大舎人と記されています。
このようなかつての祇園祭は応仁・文明の乱の後では姿を変え、下京区域の風流として残り、今に続いているのです。
また、町衆の祭りとしての視点で考えると、中世における祇園祭の財政基盤も気になるところです。
16世紀後半~17世紀初頭にかけて、室町幕府が作った制度に寄町(よりちょう)というのがあり、祇園会の出銭(費用)を捻出していたことが分かります。ここで、先に述べた中世の町の形成とも繋がりますが、実はまだ不透明な部分が多く、どのようにして山鉾の維持管理がなされていたのかははっきりしていないそうです。
■対談
下坂先生と川嶋先生が、お互いの話を聞いて疑問に思ったことなど、質疑応答の形式で進められていきました。
祇園会とよく言われるのは、神幸祭・還幸祭の両方を指し、氏子圏(八坂神社)を山鉾が回って疫神を集めて清められた後、神輿渡御が行われます。山鉾が巡行終了後にすぐ解体されるのは、疫神を払う意味があります。
室町時代に生まれた寄町についても質問があり、鉾に寄り添う(支援する)から寄町というなどの説があるそうです。どの町がどの鉾の寄町になるかは設定されていましたが、江戸時代に移り変わってしまったため、詳しいことがわからないようです。
また、祇園祭は応仁・文明の乱で一時途絶えましたが、その再興の際には当時の幕府が深く関与し、以降は朝廷の祭礼というより、町衆の祭りとしての意味合いを深めていきます。しかしそれより前から、足利義満が山鉾の巡行に積極的に関わり、経済的・労働的に支えていたのではないかという見方もされていました。義満は、庶民の信仰の在り方をよく考えていたようだと。
中世の京都について、かなり研究が進められてきましたが、まだ不明な点は多く、特に幕府と祇園祭の関係、町の制度と費用の捻出方法などを調べていくと、本来の祇園祭の姿がはっきりしてくるはず。「今年は祇園祭の後祭の復活もありますし、かつての祇園祭について皆さんもぜひ一考してみてください」と下坂先生の言葉で締めくくられました。
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