第41回
京阪・文化フォーラム
幕末から明治維新に至る歴史の転換期、討幕運動の中心人物として活躍した西郷隆盛。彼は一体どのような人物であったのか、また幕末維新の志士達はどのような行動をとったのか。明治維新から150年の節目を迎えた今、改めてその勇ましい彼らの実像に迫ります。
- 平成30年4⽉28⽇(⼟)13時〜15時20分(予定)
- 枚⽅市市⺠会館
- [講演] 「今、なぜ明治維新なのか 〜西郷どんの実像〜」
- [講演] 「京阪沿線の西郷隆盛ゆかりの地」
- 京都・霊山歴史館副館長・歴史家
木村幸比古(きむら さちひこ)先生
現在放送中のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』でも丁寧に描かれている西郷隆盛。貧しい下級武士の家で育ち時代の変革者となった彼の実像について、幼少期から「江戸無血開城」、そして「西南戦争」に至るまで、興味深いお話が展開されました。また、京阪沿線における西郷ゆかりの地もご紹介いただきました。ご参加された方々は、時にうなずきながらしみじみと聞き入っておられました。
■第1〜第2部:講演「今、なぜ明治維新なのか 〜西郷どんの実像〜」
今回、1部・2部ともに講演されたのは、「京都・霊山歴史館」副館長であり歴史家の木村幸比古先生。『龍馬暗殺の謎』(PHP出版)や『新選組京をゆく』(淡交社)など数々の著書を出版されているほか、NHK歴史番組への出演やNHK大河ドラマの展示委員など、幅広く活躍されています。まず第1部では、西郷隆盛という人は一体どういう人物だったのか、についてお話しされました。
西郷は文政10(1828)年、薩摩国・下鍛冶屋町にて下級藩士である父・吉兵衛、母・まさの元に生まれました。薩摩は江戸から見て最南端であることから経済的な負担が大きく、またシラス台地により土壌が痩せ米も獲れないことから、日本一貧しい藩でした。加えて下級藩士の家ということで極貧の生活だったようです。
そんな中でも西郷は「郷中教育」という集団教育をしっかり受けています。これは、先生が生徒に教えるのではなく年長者が年少者を教える教育方法。読み書きやそろばんといった座学にはじまり、体力を養うための遊び、そして仕事、剣術の稽古もして夜は帰宅する。郷中教育ではそんな規則正しい生活が組み込まれていたそうです。そうして学ぶうち、西郷は「即今、当処、自己(そっこん、とうしょ、じこ)」という禅の言葉に出会います。これには“一瞬一瞬を精魂込めて生ききる”という意味が込められており、これがのちの「共存共栄」という考え方に繋がっていきます。
18歳になった西郷は今でいう税務署で働き、困窮する農民の姿を目の当たりに。大飢饉でも例年と同じ年貢を納めなければならない状況で、農業ではなく別の近代的な考え方を模索するようになります。こうして藩全体を思って働いている西郷の存在を、山内容堂が「非常に優秀な男」と幕末の名君・島津斉彬に告げ、28歳の時に参覲交代で江戸へと呼び寄せられました。
日本を改革するには将軍家を変えなければいけない。世継ぎをどうするかという問題が噴出する中、西郷が崇敬してやまない斉彬が急死。精神的に揺さぶられた西郷は自殺を考えましたが、それを止めたのが僧・月照上人でした。そんな月照は井伊直弼による「安政の大獄」で薩摩へ逃げており、恩義を感じていた西郷は“せめて1人では死なせない”と月照ともに入水自殺へと踏み切ります。ところが、西郷だけがぷかぷかと浮き上がり助かる結果に。薩摩藩はそんな西郷を藩においておくことはできない、と沖永良部島へ島流しにします。
38歳の時、ようやく島から帰藩した西郷は「禁門の変」に参戦し指揮をとります。人の意見をよく聞き慕われたことで、幕臣・勝海舟と謁見(えっけん)。幕府の衰退を知り、坂本龍馬の進言で薩摩と長州は軍事同盟を結ぶに至ります。そして幕府と距離を置き、岩倉具視、三条実美らと西南雄藩における新政府樹立を目指して立ち上がるのです。
日本を見渡して、日本経済は諸外国に比べはるかに遅れていると感じていた西郷。このままでは侵略されてしまうと危機感を持ちます。“国民のための政治”を掲げた「大政奉還」が進む中、その裏で討幕を画策。そして「鳥羽伏見の戦い」で旧幕府軍15,000名に対し、新政府軍4,500名で対抗。圧倒的な差だったものの、新政府軍による新式銃と弥助砲の使用や風上・風下の陣取り作戦などが功を奏し、新政府軍が勝利を収めたのです。
徳川慶喜は江戸まで逃げ、新政府軍はそれを追います。当時江戸には100万人が住んでおり、血気盛んな新政府軍がそこに押し寄せれば江戸壊滅は確実。勝海舟はそんな状況を憂慮し、「国のためには江戸を残さねば」と強く思います。そして山岡鉄舟に西郷へ手紙を届けさせ、勝と西郷による歴史的会談が実現。ここで「江戸城無血開城」という平和的解決に至ったのです。
新政府と旧幕府の対立で、つい「勝った」「負けた」という話になりがちですが、新政府軍はもちろん旧幕府軍も含め、当時の人には“より良い近代国家をつくろう”という信念がありました。前を向き行動していたことは両者ともに素晴らしい。そんな歴史の新たな見方が提示され、またひとつ見聞が深まった講演でした。
■講演「京阪沿線の西郷隆盛ゆかりの地」
1部・2部のご講演の後に、西郷隆盛を偲ぶ上でぜひ訪れたい京阪沿線ゆかりの地をご紹介いただきました。
まずひとつめは、京都・伏見にある寺院「大黒寺」。通称薩摩寺と呼ばれ、出世開運や金運などにご利益のある真言宗の寺院です。江戸初期には薩摩藩邸が近隣に位置し、薩摩藩主である島津家の守り本尊、大黒天がまつられていました。これにより、藩の祈祷所としても機能。幕末には西郷をはじめ大久保利通がたびたび通ったとされ、非公開ながら会談を行った部屋も残されています。見所は境内にある薩摩藩士・有馬新七ら寺田屋殉難9烈士のお墓。西郷が建てたとされています。
2つめは、清水寺の「舌切茶屋」。こちらは討幕運動に身を投じた清水寺・成就院の月照上人ゆかりの場所。なお、この名前は成就院執事・近藤正慎が六角獄舎に捉えられても月照の行方を白状せず、舌を噛み切って最期を遂げたことに由来します。現在でも茶屋として営まれ、参拝者の憩いの場になっています。
3つめは京都の薩摩藩邸跡と薩長同盟ゆかりの地。京都の新たな藩邸としてとして造営された薩摩藩邸・二本松屋敷は、薩長同盟会談も行われるなど薩摩藩の政治的重要拠点でした。また薩長同盟ゆかりの地である近衛家別邸(御花畑御屋敷)は、幕末に薩摩藩主・島津家が使用しており、家老・小松帯刀の寓居としても知られます。慶応2(1866)年には薩長同盟に先立って長州から上洛した木戸孝充らが宿泊。西郷、坂本龍馬、小松らと会見し、徳川家による長州征討への対応について合意がなされました。
そして4つめが、東福寺「即宗院」。こちらは非公開ではあるのですが、西郷と月照がここで討幕計画を練ったとされている興味深い場所。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍が寺の裏山山頂から幕府軍に向かって砲撃を加えたとも伝えられています。西郷直筆の掛け軸が残されているほか、境内には西郷自筆の「東征戦亡(とうせいせんぼう)の碑」が存在します。
日本の変革を目指した西郷の生き様に思いを馳せながら、散策とともに美しい風景に思う存分浸ってみてはいかがでしょうか。
京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。
- 京阪グループ開業110周年記念事業「記念フォーラム」
- 第44回 京阪沿線の城と歴史発見
- 第43回 明治維新と東海道五十七次
- 第42回 花と建築 建築と華
- 第41回 今、なぜ明治維新なのか。〜西郷どんの実像〜
- 第40回 東海道五十七次と大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
- 第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い
- 真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—
- 第38回 国宝 石清水八幡宮本社
- 真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!
- 第37回 馬と人間の歴史
- 第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦
- 第35回 中世の京都町衆と祇園祭
- 第34回 彩られた京都の古社寺
- 第33回 水辺の歴史 大川沿いにある大坂の陣戦場跡
- 第32回 神に祈った武将たち -石清水八幡宮と源平・足利・織田・豊臣・徳川-
- 第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-
- 第30回 信仰とお笑いの狭間に落語
- 第29回 平清盛と平家物語
- 第28回 葵祭
- 第27回 酒は百薬の長 落語は百楽の長
- 第26回 今に生きる熊野詣