京阪・文化フォーラム

第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦

光秀と秀吉が駆けめぐった、目まぐるしく変わる激動の時代の節目。「本能寺の変」を変革点とする中世から近世への潮流とその真相を明らかにし、両雄、相まみれた山崎の合戦での地勢的背景と両陣営の戦略をつまびらかにします。

日時
平成27年4月4日(土)13時〜16時
会場
枚方市市民会館(京阪電車枚方市駅 徒歩約5分)

プログラム

歴史工房主宰 明智 憲三郎

[講演]
「光秀の子孫が語る『本能寺の変431年目の真実』」
歴史工房主宰
明智 憲三郎(あけち けんざぶろう)

大山崎町歴史資料館館長 福島 克彦

[講演] 「山崎合戦と光秀・秀吉」
大山崎町歴史資料館館長
福島 克彦(ふくしま かつひこ)

レポート

会場外
会場中

戦国時代最大の事件であり、謎とされる「本能寺の変」。
光秀が謀反を起こした理由については、恨みによるものなど諸説もありますが、それらの定説を否定し、新たに解き明かされた真実を様々な資料によって考察されました。

今回の文化フォーラムは前年10月に予定していましたが、台風19号の影響により延期となっていました。皆様のご要望により今回の開催の運びとなり、約900名の方にご参加いただきました。

■第1部

第1部の様子
第1部の様子

第1部は、明智光秀の子孫とされる明智憲三郎さんの講演「光秀の子孫が語る『本能寺の変 431年目の真実』」です。家伝によれば、本能寺の変のあと、逆賊と揶揄(やゆ)された明智家の暮らしはたいへん肩身の狭いもので、そのため光秀の子は明田と姓を変え、京都の神官の子として育てられたそうです。明治になって明智と名乗るようになったそうです。

戦国史における通説はストーリーをあらかじめ想定し、それに合う証拠のみを採用する、という手法で進められています。これでは真実が解明されないと感じた明智さんは、客観的なデータをもとに真実を導き出す「歴史捜査」という手法を編み出しました。明智さんの歴史捜査では、

1. 予断を持たずに調査を開始する
2. 証拠を徹底して洗い出す(残されている文書を読み解く)
3. すべての証拠が矛盾なく成立するストーリーを見つける
4. 3のストーリーが忠実と辻褄があうか検証する

という手順を踏みます。
多くの資料を読む中で、明智さんはある歴史観を持つに至ったと言います。その歴史観とは、当時の戦国武将たちの最も重要な責任は「一族の末代までの繁栄」であるということ。だとすれば、なおさら、失敗すれば一族の滅亡をもたらす危険を冒してまで、光秀はなぜ謀反を起こしたのかという疑問が高まります。

「時は今 あめが下なる 五月かな」。『愛宕百韻』のなかの光秀の発句です。「下なる」の部分を「下知る」として謀反の意を表した句として知られますが、「知る」と変えたのは秀吉。もともとは「下なる」であったこの句を、明智さんは光秀の苦悩を表した句だと説きます。五月雨のような苦境のなかにいる5月・6月になったらこの苦境から脱したいという願いを戦勝の神に祈ったと言うのです。

そして、決定的な動機となったのは信長の国家構想だと明智さんは言います。イエズス会に残された資料によれば、信長は天下統一ののち、明の征服を考えていました。光秀は、自分の子や孫がこれに送り込まれてしまったら、明智家は滅亡すると思いました。そして、それを止めるには織田政権の滅亡、すなわち謀反しかないと考えたのです。

とはいえ、光秀の謀反の成立は極めて絶望的でした。その上、武将の責任として失敗して一族を滅亡させることは許されません。しかし、謀反は起きました。千載一遇のチャンスが訪れたに違いありません。従来、光秀の謀反は無策で無謀と言われてきました。けれど、決してそんなことはないと明智さんは言います。

光秀のいう「時は今」は、実は「信長による」本能寺の変だったと明智さんは結論付けます。信長は、孫子の兵法をよく利用していました。家康という人物の危険性をこの時すでに察知していた信長は、堺見物に行っていた家康を本能寺へ呼び出し、光秀に家康を討ち取らせる、という計画を練っていたのです。そうすれば、信長は「戦わずして勝つ」という孫子の兵法の真骨頂をやってのけることができるのです。

光秀はこの信長の企てを逆手に取り、信長を討ちました。そう考えると、「余は自ら死を招いたか」、信長最後のセリフと言われるこの言葉の本当の意味がわかってくるのです。

講演では、根拠となるさまざまな資料を紐解きながら、光秀による本能寺の変の全貌が明らかにされました。時折ジョークを交えながら軽快に話される明智さんの講演を通して、通説ではない真実の歴史を学ぶことのおもしろさを感じることができました。

■第2部

第2部の様子
第2部の様子

第2部は、山崎合戦の地、大山崎町の歴史資料館の館長を務める福島克彦さんの講演です。タイトルは、「山崎合戦と光秀・秀吉」。小説やテレビドラマなどにも多く描かれる本能寺の変から山崎合戦までを、現在のその場所の写真を見ながら地勢的に解説されました。

本能寺の変を巻き起こした明智光秀と、天下統一を目論んで京を目指していた羽柴秀吉がぶつかりあったのが「山崎合戦」。その場所が天王山の麓であったことから、重要な局面を表すときに「天王山」という言葉が使われるようにもなりました。この山崎合戦は、現在の淀川の右岸で行われたのですが、当時戦況はたいへんなもので左岸も戦場になる可能性もあったそうです。

当時、織田家の家督はすでに信長の嫡男・信忠にありました。従って光秀の企ては、信長だけでなく信忠も討ち取ってこそ成功するといえます。
この時の信長、信忠の動きについての資料として、本能寺の変の5日前に信忠が森蘭(乱)丸に当てた書状があります。当時、信忠は徳川家康、穴山梅雪とともに大坂・堺見物に向かっていたのですが、一両日中に信長が入洛すると聞き、堺行きを延期し京都で待つと書き残しています。結果的に、これが信忠の最後の書状となりました。光秀は、織田家の中軸にいた人物ですから、この情報を入手し、謀反の実行を決めたのかもしれません。

西に向かうはずだった光秀が、突然東に向きを変えたとき、当時の兵たちはどう感じたのでしょう。フロイスの『日本史』には、光秀が家康を討つのではないかと思った、と書き残されています。また、『本庄惣右衛門覚書』という資料にも「家康が京へ向かっていたので家康を討つものとばかり思っていた。本能寺という場所も知らなかった」とあるように、光秀の謀反はまさに急転直下。そのような状態で、信長親子を一気に仕留めたということは、光秀の底力を感じます。

本能寺の変のあと、光秀は山城国の防衛に勢力を注ぎます。洞ヶ峠などが有名ですが、淀にも城を築くなど、京都盆地周囲の防衛を固めました。そのような中、秀吉は山崎に集中して軍をあげます。ときは山崎合戦前日の6月12日。現在の長岡京・小畑川と犬川に挟まれた勝竜寺の西で小競り合いが始まっています。現在の神足神社のあたりには今なお土塁が残っており、山崎合戦の唯一の遺構となっています。

そして迎えた6月13日。秀吉は、西国街道沿い、淀川沿い、天王山側の3方向に分けて進軍し、光秀は北から逃げることとなります。この時の様子は京都の社寺や公家の文書に多く書き残されています。『賀茂別雷神社文書』には、「勝竜寺の合戦において光秀を破った」と述べた信長の家臣・丹羽長秀の書状が残されおり、『兼見卿記』には、鉄砲の音が京都まで鳴り響いたこと、光秀軍の落武者が白川や一乗寺まで逃げたことなどが記されています。

本能寺の変は、戦国史において大きな転換点であると福島さんは言います。光秀の謀反の物語だけでなく、その前後で各勢力がどう変化したのかを広域的に見ることで、歴史の違った見方ができます。また、実際の場所を訪れてみても楽しいとも。特に西国街道には、中世の道や近世の道が残っている部分があるので、その場に立ち往時に思いを馳せるというのもおもしろいのではないでしょうか。

京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。

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