京都ツウ・ウオーク

第5回「京の“名門”を振り仰ぐ」 ~荘厳にたたずむ門を訪ねて~ 2011年11月26日(土)開催

木々がほんのり色づき始めた秋の日。第5回京都ツウ・ウオークを開催しました。
今回のテーマは「門」。注目されることが少ない建物ですが、実際には大切な役割があります。
歴史的いわれがある門や日本最古のものなど、七条駅~鳥羽街道駅界隈を歩きます。

レポート風景

集合は七条駅改札口前。

レポート風景 京都国立博物館

まずは京都国立博物館。
特別展示館(旧本館)と西門は赤坂離宮などを手がけた片山東熊(かたやま とうくま)による設計です。
日本人による本格的な西洋建築として京都で初めて建てられたもので、1895(明治28)年に竣工されました。
どちらも重要文化財に指定されています。

※2013年秋まで平常展示館の建替え工事が行われています。

レポート風景

その京都国立博物館から東大路通に沿って続く大きな石垣。これはかつてこの辺りに大伽藍を展開していた方広寺の石垣です。

レポート風景

豊国神社の前に大きな道が広がっています。
渉成園、東本願寺を越えて、西本願寺の方まで続くこの道は正面通と言って、方広寺の正面にあったことから正面通という名前が付けられました。

レポート風景 豊国(とよくに)神社

正面通の突き当たりにある豊国神社。
約400年前の天下人・豊臣秀吉を祭神としています。
天下統一を果たした秀吉が1598(慶長3)年に伏見城で亡くなると、遺体は東山三十六峰の1つ阿弥陀ヶ峰に埋葬。
秀吉は「豊国大明神」の神号を与えられ、中腹には80あまりの社殿が建ち並び、豊国社(とよくにのやしろ)と呼ばれるようになりました。
しかし江戸時代になると、徳川家によってそれらは徹底的に破壊され、約250年間、荒れ放題に。
その後、1880(明治13)年に明治天皇の命により、方広寺大仏殿跡に「豊国神社」として再建されました。

レポート風景 唐門(からもん)

ところで門には、神社であれば神、お寺なら仏をまつる「神聖な場所」と、私たちが住む「俗世間」とを分ける仕切りのような役目があります。
門をくぐればそこは神聖な世界。
形や大きさはさまざまであり、それを見れば神社・寺院の格式が分かるともいわれています。
さて豊国神社の門、よく見ると屋根がカーブして両端がキュッと上がっています。
この形状の屋根を唐破風(からはふ)といい、唐破風を持つ門を唐門といいます。
もともとは伏見城の城門で、家康によって二条城に移築され、さらに南禅寺塔頭・金地院へ、そして豊国神社へと移されてきました。

レポート風景 レポート風景

カーブしている屋根の下には蟇股(かえるまた)が見えます。
屋根の重みを分散させる役目があり、時代の移り変わりとともに装飾が施されるようになりました。
この唐門の蟇股には秀吉の家紋である「桐」の彫刻が施され、その奥には「豊国大明神」と刻まれた額がかかっています。
額の左右には、長寿を表すおめでたい動物の「鶴」がつがいで彫刻されています。
つがいであることから、子孫繁栄、夫婦和合の意味も込められているそう。
この彫刻は、江戸初期の宮大工・彫物師の左甚五郎(ひだり じんごろう)によるものといわれ、あまりの出来の良さから「完全に仕上げてしまうと魂が宿って飛んでいってしまう」と心配され、最後の目入れが行われていません。

レポート風景 鯉の彫刻

また門扉には、立身出世の代名詞ともいうべき「鯉」が彫られています。

レポート風景 豊国神社宝物館

1925(大正14)年に開館した豊国神社の宝物館です。
当時はまだ珍しかったコンクリート製で、展示ケースのガラスもその当時ものと貴重な存在。
ここには、狩野内膳による「豊国祭礼図屏風」や、秀吉・千利休に仕えた釜師による鉄の灯ろう、秀吉の歯などゆかりの品々が展示されています。

方広寺梵鐘

豊国神社のすぐお隣は方広寺。
ここに豊臣家滅亡の発端となった「方広寺鐘銘事件」の鐘があります。
この鐘が新調された際、家康は、表面に刻まれた何万字とある銘文の中の「国家安康(国が安らかであるように)」「君臣豊楽(君主も家臣も豊かで楽しく)」に対し、「家康」の文字を分けることで徳川家の分断を呪い、「臣豊」と続けることで豊臣家の繁栄を願っていると言いがかりを付けます。
やがて大坂冬の陣・夏の陣へと発展し、敗れた豊臣家は滅亡しました。
これは豊臣家に戦を仕掛けるために家康が画策したことだと考えられています。
鐘の内側には白い染みがあり、淀君の怨念と言われています。

レポート風景 方広寺大仏殿跡

豊国神社の東側にある方広寺大仏殿跡緑地。
桃山時代にはこの場所に高さ50mもの大仏殿が建てられていたそうです。
秀吉が建てた方広寺の大仏は高さ約20mという巨大なものでしたが、完成翌年の大地震により倒壊。
このとき秀吉は「京の人々の守りを忘れてうぬが真っ先に倒れるとは何事じゃ!」と大仏を叱ったとか。
再建に乗り出しますが、その途中で秀吉は死去。
秀頼がその事業を引き継ぎ、度重なる火災や地震を経て1614(慶長19)年に完成するものの後に焼失、再建されることはありませんでした。

レポート風景

次に向かったのは、妙法院門跡。

かつて天皇や貴族は子どもの数が多かったため、跡継ぎ以外の子どもたちの多くが仏門に入りました。
その子どもたちが住職を務めるお寺は格式を上げられ、「門跡」の称号を与えられました。
この制度は明治時代になくなりましたが、京都には三千院、曼殊院、仁和寺、大覚寺など多くの門跡寺院が残っています。

位の高い人を迎える玄関には、唐破風が使われました。
11月中・下旬には紅葉が見頃を迎えます。

妙法院門跡の塀には白線が引かれています。
これは「定規筋(じょうぎすじ)」と言って、寺院の格式を線の数で表しています。
5本線が最高の格式になります。

レポート風景

妙法院門跡の南側を東へと向かう道。
その先に見えるのが、秀吉の霊廟がまつられた阿弥陀ヶ峰で、この長い一本道は「豊国廟参道」と呼ばれています。

レポート風景 智積院(ちしゃくいん)

豊国廟参道を挟んで妙法院門跡の隣にある智積院。
ここも秀吉ゆかりの寺院で、もとは祥雲禅寺(しょううんぜんじ)といいました。
秀吉の第一子でわずか3歳で亡くなった鶴松(つるまつ)を弔うために建てられたお寺です。
しかし、家康によって破壊されてしまい、後に紀州から移されてきたのが智積院なのです。
ここは名勝庭園で有名ですが、その庭の一部に祥雲禅寺時代の様子を見ることができます。
長谷川等伯親子の「楓図」「桜図」も有名です。
七条通の突き当たりにある智積院の門。
普段は閉まっていて、新しい住職を迎え入れるときにのみ開かれるそう。
通常はさらに南の出入り口を使用しています。

レポート風景 養源院

父・浅井長政の菩提寺として、淀殿によって創建。
後に焼失してしまいましたが、妹で二代将軍秀忠の正室となったお江によって再建されました。
豊臣の時代に建てられたものは、幕府によってとことん破壊されていますが、ここは逆に徳川の時代になって建てられたことになります。
また、お江の子どもが天皇家に嫁いだことから、天皇家・徳川家・豊臣家ともにゆかりのある、日本でも珍しいお寺でもあります。

本堂は伏見城の遺構で、血天井、俵屋宗達の作品などでも有名です。

レポート風景 法住寺竜宮門

法住寺は竜宮城を思わせる門。
その名も「竜宮門」といって、鎌倉時代に中国から入ってきた黄檗宗の門でした。当時この門が人気となり、他の宗派でも取り入れるようになったそうです。

法住寺の西にあるのが、妙法院門跡の塔頭・三十三間堂。
正式には蓮華王院(れんげおういん)といいます。
平清盛が後白河上皇のために創建したお寺ですが、一度火災に遭い、鎌倉時代に再建されています。
お堂の長さは約120m。柱と柱の間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれるようになったとか。中央には国宝の千手観音坐像、その両脇に千手観音立像が500体ずつ、背後に1体と計1001体立ち並び、見る人を圧倒します。
また、風神雷神、二十八部衆の仏像もともに並んでいて、京都の人気スポットになっています。

レポート風景

三十三間堂の南大門。
実はこれも家康の徹底破壊から免れた秀吉の遺構の一つで、もとはというと方広寺の南大門でもありました。
一部に、秀吉の家紋・桐が刻まれた瓦が残っています。

レポート風景

また、変電所の名称に「大仏」の文字があります。
この辺りまで大仏殿があった方広寺の敷地だったことの名残です。

レポート風景 新熊野(いまくまの)神社

東大路通を道なりに南へと進むと、大きな木が見えてきました。
ここは、熊野神社、熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社と並んで京都の三熊野の一つと呼ばれている、新熊野神社です。
平安時代末期の京都~熊野間片道1カ月という時代に、熊野詣でが大好きで34回もお参りに行ったという後白河上皇が創建。
また、金閣寺を建てた足利義満がここで初めて見た能に感動し、演じた人物に観阿弥・世阿弥と名を与えたことから能の発祥の地ともいわれています。

レポート風景

後白河上皇お手植えとされ、樹齢850~900年のクスノキ。
上皇がお腹の調子が悪いときにこの木に祈願して治癒したことから、地元の間では「おなかの神様」とも。

レポート風景 臥雲橋(がうんきょう)

神社を後にして、東福寺へ。
境内に近づくと、臥雲橋が見えてきました。
1847(弘化4)年にかけられたこの橋は一般道で通行自由。
ここから眺めると、カエデやモミジに埋まる通天橋が眺めることができます。
当日の葉の色付き具合はまだ一部でした。
紅葉の名所として有名ですが、四季折々の表情を見せる渓谷は、紅葉シーズン以外でも見応え十分です。

レポート風景 通天橋

レポート風景 東福寺本堂

本堂(仏殿)のそばを通ります。
東福寺は鎌倉時代、1236(嘉禎2)年に九条道家(くじょうみちいえ)の発願によって創建。
奈良の東大寺のように大きく、興福寺のように格式のある寺院となるようにと1字ずつもらって「東福寺」の名に。
その後3度も火災に遭っています。

レポート風景 東福寺三門

最後の門は東福寺の三門です。
もともとお寺は山に作られ、その入り口を「山門」と呼んでいました。
いつしか平地にもお寺が建てられるようになり、その門を、空門・無相門・無作門という悟りの境地に通じる3つの境地「三解脱」を冠して略した呼び名「三門」と表すように。

さて、東福寺の三門ですが、これも一度は焼失しましたが、1425(応永32)年に室町幕府第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)によって再建されました。高さは約24m。
下からでも見える「妙雲閣」と書かれた扁額は足利義持の筆跡。
禅宗寺院では最古・最大といわれ、国宝に指定されています。
また、三門の四方には屋根を支える柱が備えられています。
この柱は1596(慶長元年)の慶長伏見地震で損傷した山門を補強するため、豊臣秀吉が取り付けたことから、太閤柱と呼ばれています。

今回は特別拝観で楼上に上がり、須弥壇(しゅみだん)を見学することができました。
中央には宝冠釈迦如来坐像、その両脇には月蓋長者像と善財童子像が立ち、周囲を十六羅漢像が囲むように安置されています。
天井や壁・梁・柱にまで描かれた極彩画は、今でも色鮮やか。
壮麗な極楽世界が繰り広げられていました。
また楼上からの景色も格別で、比叡山や嵯峨・嵐山まで見通すことができます。

今回のウオークは三門のすぐ隣にある、禅宗式の便所「東司(とうす)」の前で自由解散。周辺には他にも芬陀院や正覚庵など見所がたくさんあるので、みなさん思い思いの方向に向かわれました。
今まで何気なく見聞きしていた「唐門」や「三門」も、それぞれに意味や形式があること分かって、今後また神社や寺院を訪ねる時にはもっと楽しく見学できそうですね。
次回のツウなウオークも楽しい企画を用意していますので、お楽しみに!

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