沿線おでかけ情報
MURASAKISHIKIBU
平安時代の風習に「垣間見(かいまみ)」があります。
垣間見とは、ものの隙間からそっとのぞき見ること。
残された資料などをもとに、紫式部の人柄を
そっとのぞいてみることにしましょう。
紫式部が生きた平安時代中期。政治の実権は貴族にあり、宮中には天皇の后(中宮)などを中心とした文化サロンがありました。
人物をクリックすると説明文が表示されます
紫式部の父
藤原為時(ふじわらのためとき)
(生没年不詳)
優れた詩人として有名で、皇太子時代の花山天皇に学問を教えたことから天皇に即位後、学問に関することを管轄する役人「式部丞」に任命された。社交下手で、藤原道長から「愛想がない」と言われたこともある。
紫式部の夫
藤原宣孝(ふじわらののぶたか)
(?~1001年)
紫式部とは、またいとこの間柄にある。役人として非常に有能で、また舞楽や和歌にも通じていた。知的でウィットに富んだ人物だったようで、新婚早々に紫式部とけんかした際にも和歌のやり取りがあり、最後には宣孝が「お前には負けた」と引き下がっている。
紫式部(むらさきしきぶ)
(生没年不詳)
作家・歌人。『源氏物語』のほか、『紫式部日記』『紫式部集』を著した。当時、女房は本名ではなく女房名で呼ばれるのが通例で、姓である藤原の「藤」と、父の役職である式部丞の「式部」をつなげて藤式部と呼ばれた。紫式部の呼び名は、『源氏物語』が知られるようになってからで、登場する紫の上をもじったもの。
中宮彰子の父
藤原道長(ふじわらのみちなが)
(966~1027年)
平安時代に権力を握った藤原北家、兼家の五男として生まれ、兄の死後、左大臣に就任。のちに娘4人を天皇のもとへ入内させ、外戚として摂関政治を行なった。一条天皇の后となった彰子のもとへ紫式部を呼んだのも道長の命による。紫式部と恋仲だったという説もある。
紫式部の同僚
和泉式部(いずみしきぶ)
(生没年不詳)
歌人。紫式部と同じく中宮彰子に仕えた。恋多き女性で多くの恋の歌を残しているほか、『和泉式部日記』も書いた。紫式部とは仲が良かったようで、男性とのやり取りについては苦言を呈しつつも、和歌のセンスは高く評価していたよう。
紫式部の主人、一条天皇の妻
中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)
(988~1074年)
藤原道長の長女で一条天皇の中宮。のちに、後一条天皇、後朱雀天皇の母となった。紫式部をはじめ、和泉式部、伊勢大輔など歌に長けた女房(にょうぼう・高級女官)たちを従えて後宮に一大サロンを形成した。
一条天皇(いちじょうてんのう)
(980~1011年)
第66代の天皇で在位は986~1011年。紫式部が仕えた彰子が入内する際にはすでに別の中宮(定子)があったが、藤原道長の圧力によって定子を皇后、彰子を中宮とした。この一帝二后は前例のないことだった。
紫式部のライバル
清少納言(せいしょうなごん)
(生没年不詳)
歌人・作家。皇后定子に仕えた。『枕草子』の作者として知られる。紫式部との面識はなかったが、ふたりは互いに良い印象ではなかったようで、清少納言は『枕草子』のなかで紫式部の夫や親戚をけなしており、一方『紫式部日記』で紫式部は清少納言のことを「自信満々だが見掛け倒し」と皮肉っている。
一条天皇の后
皇后定子(こうごうていし)
(977~1001年)
藤原道長と勢力争いをしていた道隆の娘で、一条天皇のもとへ入内。道長の圧力により中宮から皇后となる。天皇の寵愛を受け、一男二女をもうけるが、次女出産後すぐに死亡した。享年24。
監修:山本 淳子(京都先端科学大学教授)
千年以上にわたって人々を魅了する小説を残した紫式部ですが、自身のことはほとんど書き残していません。大津にあるゆかりの地を巡って、その面影を想像してみましょう。
『源氏物語』起筆 伝承の地
京阪電車石山寺駅下車 徒歩約10分
747(天平19)年、聖武天皇の勅願によって良弁僧正が創建したと伝わります。平安時代、離れた場所にある社寺を参拝する物詣(ものもうで)が流行します。石山寺は京都の清水寺、奈良の長谷寺とともに三観音に数えられ、厚く信仰されていました。また京の都からそう遠くなく、悠々としたびわ湖の景観も楽しめることから女性たちにもとても好まれていました。
『蜻蛉(かげろう)日記』の著者・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)をはじめ、中宮彰子に仕えた赤染衛門や和泉式部ら多くの女性が石山詣をしたようで、紫式部もそのひとりと伝えられています。
中宮彰子に「新しい物語を」と命ぜられたときに石山寺を訪れた紫式部。時はちょうど中秋で、びわ湖に映る月を見ていると、ふと光り輝く貴公子の姿が思い浮かんだそう。こうして『源氏物語』の執筆が始まったと言われています。
現在の本堂は1096(永長元)年の再建。内陣の東端に紫式部がこもったとされる小部屋「源氏の間」が残されています。
Episode of MURASAKISHIKIBU
石山寺は、紫式部が使ったとされる古硯を所蔵しています。墨をする場所が2つある硯で、紫式部は濃淡を使い分けて執筆していたといわれています。
石山寺境内で大河ドラマ放送に合わせて各種展示が開催されます。
明王院
ここでしか⾒ることができない⼤河ドラマのテーマを深堀りした映像を4Kシアターで上映します。ドラマに登場する⾐装や⼩道具なども展⽰されます。
世尊院
『源氏物語』の恋の和歌が、オリジナルのイラストや楽曲で現代的に表現されます。色や香り、花など、平安時代の恋を彩った文化も体験することができます。
越前への旅立ちの地
京阪電車石場駅下車すぐ
びわ湖の南端付近にある打出浜は古来、景勝地として有名でした。平安時代には石山詣の際に、打出浜辺りから舟に乗り、瀬田川を下って石山寺へ向かったと言います。
また、若き日の紫式部は父の赴任に伴って越前(現在の福井県東部)に向かいますが、その時にも大津から旅立ったと考えられています。
石山寺への参詣道
京阪電車大谷駅下車すぐ
山城国(現在の京都府中部)と近江国(現在の滋賀県)の国境に設けられた関所。都から石山詣に向かう際には必ずと言っていいほど通る関所でした。古くから和歌などにもよく歌われており、また紫式部は『源氏物語』の「関屋」の中でこの地を舞台として登場させています。
紫式部の父が出家した寺
京阪電車三井寺駅下車 徒歩約5分
飛鳥時代に創建され、平安時代には紫式部の仕えた中宮彰子の父親にあたる藤原道長をはじめ、多くの貴族の信仰を集めた寺院。紫式部にもゆかりがあり、異母兄弟が三井寺の僧侶であったほか、父・為時も晩年、三井寺で出家し娘を偲ぶ日々を過ごしたと伝えられています。
2024年は特別展示を開催
京阪電車大津市役所前駅下車 徒歩約5分
大津や近江国の歴史・文化に関する展示や調査を行う博物館。2024年は、「源氏物語と大津」と題した特集展示が開催されます。展示品は6期に分けて公開。映像なども交えながら源氏物語と大津の関係を分かりやすく解説します。
叶 匠壽庵 石山寺店
(かのうしょうじゅあん いしやまでらてん)
京阪電車石山寺駅下車 徒歩約10分
石山寺所蔵の紫式部の古硯にヒントを得た葛焼き。黒豆と小豆で墨の濃淡を表現しています。焼いた表面の香ばしさと、やさしい甘さでもっちりした葛の食感が同時に味わえます。
芋屋十三(いもやじゅうぞう)
京阪電車石山寺駅下車 徒歩約10分
目の前でお芋のクリームを絞ってくれるモンブラン。お芋のペーストとカスタードを合わせたクリームは濃厚な味わい。中には冷やした焼き芋とチーズ風味のアイスが入っています。
大津菓子調進所 鶴里堂
(おおつかしちょうしんじょ かくりどう)
京阪電車上栄町駅下車 徒歩約5分、またはびわ湖浜大津駅下車 徒歩約10分
『源氏物語』の一節を焼印で打ったどら焼き。1升ずつ手鍋で炊くという自慢のあんはあっさりしており、大粒に刻んだ栗の甘さが引き立っています。
琵琶湖ホテル カフェ ベルラーゴ
京阪電車びわ湖浜大津駅下車 徒歩約5分
『源氏物語』にちなんだ女性たちをイメージしたノンアルコールカクテル。紫式部をモチーフにした「十五夜〈紫式部〉」のほか、「さくら〈紫の上〉」など四季替わりのモクテルも登場します。
紫式部が晩年をこの付近で過ごしたという言い伝えがあります。船岡山の東麓にある雲林院はもともと紫野院と呼ばれる淳和天皇の離宮でした。現在は観音堂だけが残されていますが、元は現在の大徳寺の建つあたりまでを含む大寺院でした。『大鏡』『古今和歌集』など平安時代の書物にもよく登場する古刹で、紫式部ももちろん『源氏物語』に登場させています。
いつどこで亡くなったかはっきりしない紫式部ですが、堀川北大路の交差点を南へ少し歩いた西側、工場の脇にひっそりと墓所があります。南北朝時代の『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に「式部の墓所は、雲林院白毫院(びゃくごういん)の南にあり」と記されており、かつて白毫院があったとされるこの地に碑が建てられたのではないかと考えられます。
隣にあるのは平安時代の公卿で、冥界で閻魔大王の補佐をしていたという説話の伝わる小野篁(おののたかむら)の墓。紫式部が亡くなった後、物語に嘘を書いたとして閻魔大王にとがめられたとき、篁がそれをとりなした縁で隣にまつられているという言い伝えがあります。
天慶年間(938~947)に創建されました。当初は船岡山(京都市北区)の南側にありましたが、応仁の乱等を経て、京都御苑の東側にあたる現在地へ移転しました。平安時代、寺のあたりは平安京の東端にあたり、紫式部の曾祖父・藤原兼輔(かねすけ)の邸宅があったとされます。
紫式部の父・為時が妻の死後、幼い紫式部とその姉、弟を連れて移り住んだと言われており、のちに紫式部はこの邸宅で結婚生活を送り、一女をもうけたと伝えられています。
現在、廬山寺の境内には「紫式部邸宅址」の碑が建てられているとともに、紫式部にちなんだ桔梗の花が美しく咲く「源氏庭」が整備されています。
紫式部は996(長徳2)年、父・為時が越前国司として赴任するのに伴っています。
紫式部親子は近江から舟で越前(現在の福井県東部)に向かいました。その際、この付近を通ったときに詠んだ歌が残されており、現在では歌碑が神社の境内に建てられています。
近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て
三尾の海に 網引く民の 手間もなく
立ち居につけて 都恋しも
現代語訳:
三尾が崎で忙しく網を引いている漁民たち。それを見ているとここが都でないことを思い知らされる
※史実等には諸説あります
※掲載の情報は2024年2月現在のものです。施設・店舗の情報および料金は、予告なく変更される場合があります