湖都から古都へ 鉄の道

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路案内5 鉄の路を辿る 水の路と並行して走る、もうひとつの路。湖都から古都までの、鉄道をめぐる歴史と人々の思いをご紹介します。

日本近代化の礎、交通の要衝となった大津—京都の“鉄の路”

琵琶湖疏水と鉄道には、琵琶湖疏水の完成によって日本初の営業用水力発電所が作られ、その電気を使って日本初の営業電車が走ったという密接な関係があります。

また、琵琶湖疏水の周辺は、大津近郊で交わった東海道と中山道が共に京都へとつながる交通の要衝であったことから、明治期以降に整備が進んだ鉄道についても、現在の姿に至るまでに数多くの鉄道会社が興り、路線も幾多の変遷を経てきました。しかも、その痕跡が多く残っているのがこの地域の特徴。

このページでは、そんな琵琶湖疏水周辺の鉄道の歴史と、その痕跡をご紹介。

時には電車に揺られ、時には線路沿いを歩いて、"鉄の路"の今昔を辿ってみませんか?普段、何気なく乗っている電車の見方が、少し変わるかもしれません。

鉄の路繁栄期〈大正後期〉
疏水沿いを走る京阪京阪特急
疏水沿いを走る京阪特急(昭和30年代)
瀬田川を渡る下り国鉄特急第一こだま
瀬田川を渡る下り国鉄特急第一こだま

京津電気軌道・大津電車軌道・江若鉄道・国鉄… この地を彩った数々の鉄道会社たち

明治から現在に至るまで、大津から京都までの地域には、多くの鉄道会社がありました。
名前は変われども今も走り続ける路線や、資料のみにその名を残す会社。それぞれ地域の人々の思いに応え、文化と歴史をはぐくんできた"鉄の路"の変遷をご紹介。

鉄道各社の変遷

変異の年表

明治の鉄の路 大正の鉄の路 昭和の鉄の路 平成の鉄の路

日本の鉄道事業は、1872(明治5)年に新橋―横浜に官設鉄道が開業したことに始まります。
その後1880(明治13)年に大津-京都が開通。この時の大津から京都に向かうルートは、旧東海道に沿ったルートではありませんでした。旧逢坂山トンネルを抜け、東山にもトンネルを作る必要があったのですが、当時は長いトンネルを掘削する技術がなく、東山を避け、南へ大きく迂回して京都駅へと向かうことを余儀なくされました。その後、1882(明治15)年には、大津とはびわ湖の対岸に位置する長浜―柳ヶ瀬(滋賀)の鉄道が開業。大津と長浜の間は鉄道連絡船によって結ばれました。 これらの路線は蒸気機関を動力としていましたが、1890(明治23)年には、路面電車も登場します。琵琶湖疏水の完成によって日本初の営業用水力発電が開始され、京都電気鉄道をはじめとする電車事業が始まりました。
また京阪電気鉄道が開業したのもこの頃。1910(明治43)年に大阪・天満橋―京都・五条で運行が開始されました。

京阪電気鉄道 旧京橋駅付近
京阪電気鉄道 旧京橋駅付近

明治期の鉄道と発電事業の開始、発展という基礎のもと、大正時代には鉄道がさらに発展していきます。人々のもっと便利に、もっと速くという思いが強く反映された時代でもあります。
東海道線では、1921(大正10)年に東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通し、これまで南に大きく迂回していたルートがショートカットされ、輸送量の増加に大きく貢献しました。

このほかにも、大津近郊では民間の鉄道会社による路線が相次いで開業した時代でもあります。
京津電気軌道(1912(大正元)年)の開業は、京都市の中心部と近江商人の拠点大津を結ぶ旧東海道に沿って線路が結ばれたことにより、人とモノの流れを大きく変えました。
次いで1913(大正2)年、東海道線全線開通により貨物支線となっていた大津(現・びわ湖浜大津)-馬場(現・京阪膳所)を線路共用する形で大津電車軌道が開業。湖南地域の鉄道網は充実する一方、湖西地域では、相対的に後れをとることになりました。
湖西地域の人々が京都方面に出るためには、汽船に乗った後、大津で一泊する必要がありました。そんな地元の請願を受けて建設されたのが1921(大正10)年に開業した江若鉄道です。不況の真っただ中、住民が費用を出し合って開業にこぎつけた、まさに悲願の鉄道だったのです。鉄道は当時の最先端技術であり、鉄道の発展によって、人々の生活スタイルは大きく変わっていったのです。

京津電気軌道 札の辻駅
京津電気軌道 札の辻駅

【昭和初期】
昭和に入ると、鉄道網が広がり、それにともなって鉄道の利用方法にも変化がありました。目的地への移動や物資の輸送に加え、レジャー目的での鉄道利用も増えていきます。
1927(昭和2)年には、比叡山観光を目的とした比叡山坂本ケーブルが開業。同年、大津電車軌道が太湖汽船と合併し、琵琶湖鉄道汽船となりました。さらに、1929(昭和4)年には、京阪電気鉄道が琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を合併し、石山―坂本の直通運転を開始しました。これが現在の石山坂本線です。船舶部門は湖南汽船と合併し、太湖汽船に社名を変えました。後の琵琶湖汽船です。
こうした企業の統合によって、鉄道サービスのレベルアップが進んでいきました。
また、京阪電気鉄道では1934(昭和9)年には日本初の連節車「びわこ号」が誕生。浜大津―天満橋を72分で結びました。江若鉄道も1947(昭和22)年に膳所駅へ乗り入れを開始。人々のニーズに合わせて鉄道の進化が続いていきます。

江若鉄道 浜大津駅

江若鉄道 浜大津駅

びわこ号(絵はがき)

びわこ号(絵はがき)

【昭和中後期】
しかし、こうした進歩に歯止めをかけたのが第二次世界大戦。軍需資材などの運搬を目的として国家総動員体制の下、陸上交通事業調整法によって、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄となります。
戦後、1949(昭和24)年には京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が独立分離し、鉄道事業を再開。高度経済成長期には、車両設備などが大きく進歩し、私鉄では京阪電気鉄道は1000型を整備して特急列車の運転を開始。1964(昭和39)年には東海道新幹線が開業し、戦後の荒廃から着実に脱却していきます。
この流れの中、国策により国鉄湖西線の敷設計画が実現化、1969(昭和44)年に重複路線である江若鉄道が惜しまれながら廃線となります。この湖西線の開業によって、北陸本線と接続し、京都から北陸方面へのアクセスが向上しました。

一方、京都市内では1972(昭和47)年に鴨川電気鉄道が発足。三条駅より北への延伸を目指したプロジェクトがはじまりました。こうした流れの中で最も象徴的であったのが、1987(昭和62)年の国鉄の民営化。JRと改称し、民営化を行うことで、効率の良い運行とサービスの向上が進んでいきます。

片町付近を走る1000型

片町付近を走る京阪電気鉄道1000型

平成に入ると、明治から続いてきた社会基盤としての交通網がほぼ整い、鉄道各社はより付加価値の高い鉄道を目指して、快適なサービスの提供や移動空間づくりといった側面を重視するようになります。
1989(平成元)年には京阪電気鉄道が鴨川電気鉄道を合併し、三条―出町柳に鴨東線を開業、大阪から洛北へのアクセスが向上しました。一方、1997(平成9)年には、京阪電気鉄道京津線の御陵―京津三条が、京都市営地下鉄東西線の開業に伴って廃線。御陵駅以西は東西線に乗り入れる形で京阪本線と接続することになりました。これにより、京津線を走る電車は、地下鉄・山岳鉄道・路面電車の3つの顔を持つことになります。2008(平成20)年には、東西線の二条―太秦天神川の延伸に伴い、京津線の乗り入れ区間も太秦天神川駅まで延長されるなど、鉄道会社の枠を超えた連携も各所で進んでいます。
鉄道各社では、車両や駅サービスの自動化も進み、より便利な乗降や乗り換えができるようになっていきます。

地下線から出た京阪電気鉄道800系

地下線から出た京阪電気鉄道800系

※"鉄の路"の会社・路線に直接関係するもののみ抜粋しています

これも"鉄の路"!?太湖汽船の鉄道連絡船

1880(明治13)年に東海道線の一部が大津—京都で開業、長浜—敦賀でも鉄道工事が始まります。鉄道の通っていない長浜—大津は、水運で結んで敦賀や関ヶ原からの陸運と連絡させる構想でした。その連絡船の運航を担ったのが太湖汽船です。1882(明治15)年に長浜―柳ヶ瀬(滋賀)の鉄道が開業し、1884(明治17)年には鉄道と太湖汽船の連絡きっぷが発売。こうして日本初の鉄道連絡船が生まれました。直後に大垣―長浜の鉄道が開業して東京とつながると長浜港、大津港は北陸、東海・関東地方からの人や物資の主要ルートとなり大いに栄えました。
しかし、その繁栄はわずか5年で幕を下ろすことになります。東海道線が全線開通したことにより船での連絡が不要となったため、連絡船は役目を終えました。東海道線全線開業までのわずかな間、“鉄の路”は“水の路”によっても補完されていたのです。

鉄道連絡船の第一太湖丸

鉄道連絡船の第一太湖丸

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