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明智光秀について

いま話題の歴史ドラマで注目の明智光秀。謎が多い人物と知られる光秀は、正確な生まれや育ちはわかりませんが、人生の後半から異例の出世を果たしたことで知られます。室町幕府最後の十五代将軍・足利義昭から織田信長へと主君を変え、比叡山延暦寺の焼き討ちで活躍をしてからは、信長の天下統一に尽力した重鎮と呼べる家臣です。軍司令官や外交官として、また、税金軽減をして治水工事をする善政など、マルチな才能を発揮。時には、連歌会を開催するなど豊かな教養を持つ人と言われます。
しかし、信長に重臣として認められた恩義を感じていた光秀が、なぜ天下の謀反劇「本能寺の変」を起こしたのか。社会科講師・伊藤賀一先生のナビゲートで、京都・滋賀のゆかりの地をたどりながら、光秀に触れる旅へ出かけてみましょう。

相関図 相関図

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明智光秀年表

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一五二八(大永八/享禄元)年
〈一説には一五一六(永正十三)年〉
美濃国(岐阜県)土岐氏の支族(清和源氏)の子、 通称十兵衛として生まれたと言われている。
一五六六(永禄九)年「長良川の戦い」で斎藤道三を討った義龍の下を離れ、 越前国(福井県)の朝倉義景に仕えたという。

足利義昭に仕えたまま、 尾張国(愛知県)の織田信長にも通じていたという。
※足利義昭と細川藤孝(細川幽斎)に信長への使者を頼まれていたと言われている。
一五六八(永禄十一)年斎藤氏を平定した信長、足利義昭を立てて上洛。 〈細川藤孝とともに常に義昭と信長の間を取り持ち、 公家たちとの交渉にも手腕を発揮〉
一五七〇(永禄十三/元亀元)年「金ヶ崎の戦い」で木下藤吉郎(豊臣秀吉)とともに 殿を務める。朝倉義景の追撃から織田信長を逃がす。
一五七一(元亀二)年「比叡山延暦寺を焼き討ち」。若狭国(福井県)平定の軍功もあり、 坂本城を築き近江国(滋賀県)西部を直轄領とする。 〈各地の戦いに参加するとともに京都の民政を司る。 十五代将軍・足利義昭とは不和に〉
一五七三(元亀四/天正元)年足利義昭が織田信長に追放され室町幕府滅亡。
一五七五(天正三)年三河国(愛知県)で「長篠(設楽原)の戦い」に参戦。 丹波国(京都府)の経略に着手。
一五七六(天正四)年本願寺十一世・顕如との戦い いわゆる「石山合戦」(石山本願寺攻め)の最中に過労で倒れ一時療養。
一五七九(天正七)年丹波国を平定、亀山城を築き直轄領とする。
一五八二(天正十)年「天目山の戦い(武田勝頼征伐)」に後方支援で従軍。 「本能寺の変」を起こし、織田信長を殺害。 信長の長男・信忠は二条御所で自刃。

「山崎の戦い」で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れる。
坂本城への帰途、小栗栖で農民に殺害されたと言われている。

中間テスト

光秀のことをより深く理解できる伊藤先生監修「中間テスト」にチャレンジしてみよう!このサイトに掲載しているスポットにちなんだ問題ばかりです。

1972年、京都市生まれ。法政大学卒業後、東進ハイスクール講師に。30歳で退職、全国を旅し、34歳で教壇に復帰。現在、早稲田大学教育学部に通いながらリクルートのオンライン予備校「スタディサプリ」で日本史など7科目を担当し“日本一生徒数の多い社会講師”と言われる。著書に『47都道府県の歴史と地理がわかる事典』(幻冬舎新書)、『笑う日本史』(KADOKAWA)など多数。

教えてくれた先生:伊藤賀一さん

1972年、京都市生まれ。法政大学卒業後、東進ハイスクール講師に。30歳で退職、全国を旅し、34歳で教壇に復帰。現在、早稲田大学教育学部に通いながらリクルートのオンライン予備校「スタディサプリ」で日本史など7科目を担当し“日本一生徒数の多い社会講師”と言われる。著書に『47都道府県の歴史と地理がわかる事典』(幻冬舎新書)、『笑う日本史』(KADOKAWA)など多数。
光秀は諸家を渡る有能フリーランス。同じフリーの私にとっては憧れです。どこでもよそ者だが、家族・部下・庶民には優しい。そもそも下剋上は当時はよくあったので悪人とも言い切れないと思います。本能寺の変で信長が言った「是非に及ばず」も真意は「上等だ」ではないでしょうか。

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