京都ツウ・ウオーク

第4回「梅雨に映える日本庭園」 ~名作庭家たちの偉業を訪ねて~ 2011年6月25(土)開催

梅雨の合間の晴れた日に開催となった京都ツウ・ウオーク。
4回目は琵琶湖疏水に沿って歩きながら、小川治兵衛(おがわじへえ)ら名作庭家によって作られた東山の庭園をめぐります。

レポート風景

神宮丸太町駅の改札口前に集合です。
おなじみ、らくたびの森さんの案内でスタート!

レポート風景

琵琶湖疏水の流れに沿って歩き、夷川(えびすがわ)水力発電所前に到着しました。
明治になり東京遷都が行われると、京都の人口が激減し、町の活気も失われてしまいました。
衰退していく京都を復興させるべく行われた近代化政策の中で最大の事業となったのが、この「琵琶湖疏水」の開削です。
重大な工事は招聘した外国人技師が行っていた当時の日本において、計画施工のすべてを日本人の手によって行った日本で最初の土木事業となりました。

滋賀県の琵琶湖から水を引き込むため大津港から水路を作り、山にトンネルを掘って京都市内へ水を流すこの工事は、1885(明治18)年に着手して5年の歳月がかかりました。
これによって、生活用水・工業用水の確保ができたほか、京都~琵琶湖間を船で運航できるようになり、交通・流通も非常に便利になりました。
さらに、疏水を利用した、日本最初の事業用水力発電所も作られました。
この電力により、日本で初めて路面電車が運行されたほか、伝統産業の機械化などが実現。京都の産業の近代化に大きく貢献しました。
琵琶湖疏水が完成したときは祇園祭の鉾が立ち、五山送り火の大の字がともるなど数々の祭事が行われ、京都をあげてのお祝いとなったそうです。
現在でも、京都市の飲料水の約98パーセントが琵琶湖の水でまかなわれています。

レポート風景

夷川水力発電所に立つこの銅像は、当時の府知事・北垣国道(きたがきくにみち)。
京都の近代化に尽力した人として知られています。

レポート風景

次に向かったのは平安神宮。
平安神宮は、1895(明治28)年に平安建都1,100年を記念して開催された、内国勧業博覧会のシンボルパビリオンとして建てられました。
19世紀は、工業化した国々が万国博覧会を開催し、その発展ぶりをアピールしていた時代。
明治政府も産業の奨励・国民の啓蒙政策の一環として万国博覧会へ出品、国内でも勧業博覧会の開催に力を注ぐようになります。
内国勧業博物館は5回開催され、その第4回の開催地が京都でした。
この建物は平安京の中心となっていた朝堂院を5/8のスケールで再現しているそう。
博覧会後は取り壊される予定でしたが、その再現性や建物の美しさからこのまま生かそうということになり、桓武天皇・孝明天皇という京都で過ごした最初と最後の天皇を神様としておまつりしています。
今回は入りませんでしたが、神殿の向こうには季節ごとの花を楽しめる神苑が広がっています。

レポート風景

平安神宮の入り口となるのが、この応天門。
上部中央には「応天門」と書かれた額がありますが、ここで弘法大師にまつわるエピソードを。
平安時代、弘法大師は朝堂院の門に掲げる「応天門」の額を書きました。
が、うっかり「応」の点を1つ入れ忘れてしまった、というのです。
これが〈どんな名人でもときには失敗をする〉という意味の「弘法も筆の誤り」ということわざの由来になったといわれています。
この日、門の中心に大きな輪が備えられていました。
これは、毎年、各神社で6月30日に行われる「夏越祓(なごしのはらい)」の茅(ち)の輪。
この輪を八の字に3回くぐって半年間の穢れをはらい、残り半年間の無病息災を願います。

レポート風景

平安神宮の参道を南にまっすぐ進むと、遠くからでもよく見える巨大な鳥居が建っています。

レポート風景

その大鳥居のすぐ東側にあるのが、京都市美術館。
1934(昭和9)年に、市民などの寄付によって建てられた美術館で、側面は洋風ながら屋根には瓦がのせられた和洋折衷様式の建物。
帝冠(ていかん)様式ともいわれ、建設当時、非常に流行った建築様式だそうです。

レポート風景

琵琶湖疏水記念館のすぐ近くに、線路の跡のような場所があります。
サクラの名所としても有名な「蹴上インクライン」です。
インクラインとは、落差のある箇所に設置された「傾斜鉄道」のこと。
舟は琵琶湖疏水を利用した舟運ルートの途中にある急勾配を下ることができません。
その舟を運搬するために1890(明治23)年に作られました。
全長は600m近くあったそう。
1948(昭和23)年前後に廃止されましたが、現在も保存されている線路や舟を運ぶ台車を見ることができます。

レポート風景

続いて南禅寺に到着。
鎌倉時代の1291(正応4)年、亀山法皇が離宮を禅寺とするため、無関普門(むかんふもん)禅師を開山に迎えて開創した、臨済宗大本山南禅寺派の大本山。
臨済宗の京都五山のさらに上に立つ格式の高いお寺です。
室町時代の応仁の乱で建物がほとんど焼けてしまいましたが、江戸時代になって現在のように再建されました。

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歌舞伎『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」で、大泥棒・石川五右衛門が「絶景かな、絶海かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。・・・」の名せりふで大見栄を切ることで有名なのが、こちらの三門。
高さは24mで、江戸時代の戦国武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)が、大坂夏の陣で亡くなった家来を弔うために建てたものといわれています。
実は、石川五右衛門が生きた時代は応仁の乱で焼け落ちた後で、実際に石川五右衛門がこの上に上がることはありませんでした。
しかし、京都の名勝であるこの三門と希代の大泥棒を組み合わせると人気が出るだろう、ということで歌舞伎の演目に取り入れられたそうです。

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南禅寺法堂から南へ進むと、レンガ造りのアーチが見えてきます。
これが、テレビドラマなどによく登場する「水路閣」。

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琵琶湖疏水の京都側の入り口がすぐそばにあり、そこから鴨川へと流れる本流と、この水路閣の上を流れる支流とに分かれています。
この水路閣は今も現役で、哲学の道のそばを通り、松ヶ崎浄水場へと流れていきます。
またその流れを、水路閣の上から間近に見ることができます。

レポート風景

レポート風景

水路閣をくぐり階段を上がると、南禅院があります。
この辺り一帯が、鎌倉時代に亀山法皇の離宮があった場所であり、南禅院はその頃の面影が残っているといわれています。
鎌倉時代末期の代表的な池泉回遊式庭園で、作庭は亀山法皇と夢窓疎石の二人という説があります。
方丈から眺めると左奥に滝口が見え、そこから山からの清水が池に流れ込んでいます。

レポート風景

池から方丈を眺めると、池の周囲が木々で包まれ、離宮当時のままの豊かな自然を楽しむことができます。

レポート風景

南禅寺の塔頭のひとつ、金地院(こんちいん)にやってきました。
全員、庭に向かって座り、森さんの話に耳を傾けます。
室町時代の応永年間(1394~1428年)、足利義持によって鷹峯に建てられ、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の側近・金地院崇伝(こんちいんすうでん)によって、1605(慶長10)年に現在地に移されました。
ここは徳川家の偉大さを表現する寺として知られ、その様子が「鶴亀の庭」と呼ばれる特別名勝の枯山水庭園に表れています。

レポート風景

作庭は、二条城などを手掛けた小堀遠州(こぼりえんしゅう)。 大きな石を使ってダイナミックに仕上げられ、桃山時代の大らかな風格を色濃く備えた、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園です。
枯山水庭園には禅の思想や教えが組み込まれていて、僧侶たちはこの庭に向かって座禅を組み、瞑想します。
白い砂は「海」や「川」などの水の流れを表し、その奥に巨石や木々を配して「島」が作られます。
金地院の庭は、方丈から見て左に「亀島」、右に「鶴島」と呼ばれる島があります。
中央には平たい大きな石(約4畳分)が敷かれています。これは上に乗って拝むための石。
木々で庭からは見えませんが、その向こうには、徳川家康を神としてまつる東照宮が置かれていて、まさに家康を拝むための庭として作られたことが分かります。

レポート風景

鶴島は、鶴が首を長く伸ばし、翼を広げて羽ばたいている様子を表現。
亀島は、亀の甲羅を模した石と小山のうえに長寿の木が植えられています。

レポート風景

境内にはあじさいが咲いていました。

レポート風景

こちらが東照宮。
家康の遺髪と念持仏が納められ、京都に唯一残る権現造りの様式。
狩野探幽による鳴龍の天井画、壁には土佐光起による三十六歌仙の額が見られます。

レポート風景

東照宮には、こういった装飾が随所に見られます。創建当時は鮮やかな彩色が施されていたそうで、現在でもその名残りを見ることができます。

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最後は無鄰菴(むりんあん)です。
まず、中へ入って抹茶(薄茶)と和菓子をいただき、ほっと一息。

レポート風景

この無鄰菴は、総理大臣も務めた政治家・山県有朋(やまがたありとも)の元別荘。
琵琶湖疏水を始めとする近代化事業を進めていた京都府は、当初の計画では、この辺りを琵琶湖疏水を利用した一大工業地帯にする予定でした。
しかし、山県が別荘を建てたことで事態は一転。
三菱の創始者・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)や、野村財閥、住友財閥により次々と別荘が建てられていき、工業地帯化は断念することとなりました。
1941(昭和16)年に京都市に委託された無鄰菴は一般に開放され、庭園は明治時代の名園として、国の名勝に指定されています。

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山県自らが設計・監督のもと、造園家の7代目小川治兵衛(おがわじへえ)によって作庭された庭園は、緩やかな傾斜地を利用しながら東山を借景に、また琵琶湖疏水の豊かな水をふんだんに取り入れて作られています。
このような取り入れ方は、当時のイギリスで非常に流行していたそうで、小川治兵衛が新しい京都を代表する庭造りに取り組んでいたことが感じられます。
庭園内にはゆるやかに曲線を描きながら川が流れ、大きな池も広がっています。

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敷地内には、木造2階建ての母屋と庭園、茶室のほか、洋館も建っています。
ここは、日露戦争直前、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人が開戦をするか否かという国の外交方針を話し合う「無鄰菴会議」が行われました。
江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画が壁を飾り、当時のイス、テーブルがそのまま残されています。

レポート風景

天井は格天井になっていて、伝統工芸の粋を集めた見事な細工が見られます。

無鄰菴で自由解散の後は、庭を散策したり、母屋に座ってのんびり庭を眺めたりと、それぞれが思い思いに過ごしました。
おだやかな時間が流れ、気持ちの良い初夏の1日となりました。
さて、次回はどんなテーマでどこへ行くウオークとなるのでしょうか、どうぞお楽しみに!

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