沿線おでかけ情報

第39回
京阪・文化フォーラム

第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い

本年は江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還から150年の節目にあたります。今回はこれを記念し、京阪沿線在住の歴史小説作家と、鳥羽伏見の戦い勃発の地としても知られる城南宮の宮司が、「大政奉還と鳥羽伏見の戦い」をテーマに幕末維新の激動の歴史を繙(ひもと)きます。

鳥羽の戦い 薩摩軍より砲撃を受けた旧幕府軍(城南宮の書籍より)

日時
017年5月13日(土) 13時~15時30分
会場
枚方市市民会館

プログラム

歴史小説作家 門井 慶喜(かどい よしのぶ)氏

[講演]
「大政奉還と徳川慶喜」
歴史小説作家
門井 慶喜(かどい よしのぶ)氏

城南宮 宮司 鳥羽 重宏(とば しげひろ)氏

[講演]
「絵図で見る 鳥羽伏見の戦いと大坂行幸」
城南宮 宮司
鳥羽 重宏(とば しげひろ)氏

レポート

会場外
会場中

今から150年前の1867年11月10日(慶応3年10月15日)、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還が行われました。日本史上の大転換点と言えるこの歴史的事件は、どのような経緯で発生し、後にどのような影響を与えたのでしょうか。武家政権の終焉と明治という新時代の幕開けの狭間で、激しく揺れ動いた幕末維新の歴史や先人達の功績に、ご参加された方々も熱心に聞き入っていました。

■第1部:講演 「大政奉還と徳川慶喜」

第1部の様子
第1部の様子

第1部は歴史小説作家としてご活躍の門井慶喜さんの講演です。徳川慶喜が大政奉還を表明した約5年前にさかのぼり、その過程を薩摩・長州・土佐を中心とする西南雄藩の動向を交えながら解説されました。

そもそも大政奉還は一夜にして行われたことではなく、1853(嘉永6)年のペリー来航以来、開国による国内経済の混乱や尊王攘夷派の台頭などにより、幕府の弱体化が露見したことが発端でした。幕府内部でも1862(文久2)年、大政奉還の5年前という早い時期に、幕閣の大久保忠寛が攘夷困難を理由に「大政奉還の論」を提唱しますが、依然として強大な権力を保つ幕府がこれを受け入れることはありませんでした。

しかし時は風雲急を告げる幕末。1866(慶応2)年、薩長同盟が結ばれた同じ年に15代将軍に就任したのが徳川慶喜でした。慶喜は第二次長州征伐の敗戦による幕府の権威失墜の中、軍政改革を主とする幕政の建て直しに着手。徳川家主導の近代的な国家体制の樹立を目指し、一時的な大政奉還を模索します。一方で、薩長による武力倒幕の気運が高まる中、事態は土佐藩から提出された大政奉還へと大きく動き出します。

明治維新の第3勢力と言われる土佐藩は、藩主・山内容堂の一貫した親幕府の姿勢や土佐勤王党を率いた武市半平太らを弾圧したことにより、薩長主導の討幕運動に遅れをとっていました。そこに平和的な倒幕を目指す大政奉還論を引っ下げ登場したのが坂本龍馬です。ちなみに、この大政奉還論は龍馬の船中八策を基に起草されたというのが通説ですが、その原点は先述した大久保忠寛の主張を取り入れたものだったそうです。土佐藩士の後藤象二郎は、これを藩の独自案として山内容堂から幕府に進言。慶喜もこれを受け入れ、1867年11月8日(慶応3年10月13日)、二条城二の丸御殿大広間にて朝廷への政権返上を表明、翌日に明治天皇に上奏、翌々日に勅許され、歴史的な大政奉還が成立しました。

新政府内においても徳川家主導の政権運営を画策した慶喜でしたが、約2カ月後の王政復古の大号令発布により江戸幕府は廃絶。一旦は平和裏に終わった大政奉還でしたが、結局は旧幕府と新政府の武力衝突へと突き進むところで講演は締めくくられました。奇しくも徳川慶喜と同名の門井さん。歴史を愛して止まない生き生きとした語り口が印象に残りました。

■第2部:講演 「絵図で見る鳥羽伏見の戦いと大坂行幸」

第2部の様子
第2部の様子

第2部は城南宮の宮司・鳥羽重宏さんから、鳥羽伏見の戦いを描いた絵図や文献を繙きながら戦闘の経過が具体的に解説されました。

鳥羽伏見の戦いを描いたものには、戦況や被害状況を伝える瓦版や錦絵をはじめ、1868(慶応4)年に出版された『淀川合戦見聞奇談』、1889(明治22)年に明治天皇に献上された『戊辰戦記絵巻物』などがあります。また1916(大正5)年に第25代城南宮宮司・鳥羽重晴に対して行われた政府の聞き取り調査を記録した『鳥羽重晴談話』には、城南宮に陣を構えた薩摩軍の開戦直前の様子や砲隊・小銃隊を配備した布陣の様子などが記されています。

さて、大政奉還成立後の1868年1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発布され、徳川慶喜に対して官職及び領地・領民の返上が命じられると、これに反発した臣下の暴発を抑えるため、慶喜は二条城を出て大坂城へ退去します。時を同じくして江戸では薩摩の挑発行動を懲らしめるべく幕兵による事件が発生。大坂城内にて討薩の声が強まる中、1868年1月26日(慶応4年1月2日)、薩摩藩追討の「討薩表」を携えた約1万5千の大軍が京都へ向けて出兵。翌日、京都南部の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍が衝突、約1年半に及ぶ戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。

鳥羽の戦いに至る経緯については城南宮所蔵の『椎原小弥太奮戦記』に詳しく書かれています。1868年1月27日(慶応4年1月3日)朝、椎原小弥太率いる薩摩勢は、鳥羽街道を北上して入京を目指す旧幕府軍の先兵と上鳥羽中の橋付近で遭遇します。薩摩勢は旧幕府兵を下鳥羽赤池付近まで押し戻し、「京へ通せ」、「通すわけには行かぬ」と半日近く押し問答を重ねます。そして夕刻を迎え旧幕府軍が強行突破を敢行、その瞬間、城南宮参道に布陣した薩摩軍の大砲が火を噴き、伏見方面でもその砲声を合図に戦端が開かれました。

1907(明治40)年に発行された書籍『錦之御旗』には、この「鳥羽関門戦争」や「伏見戦争」をはじめ、1868年1月28日(慶応4年1月4日)朝の「高瀬川堤戦争」、その翌日の「淀千両松戦争」など様々な激戦を描いた絵図が収録されています。鳥羽・伏見の緒戦を歴史的勝利で終えた新政府軍は、朝廷から与えられた錦の御旗が戦場に翻るといよいよ勢いを増し、一転賊軍となった旧幕府軍は各地で敗退。徳川慶喜は船で江戸へ脱出し、4日間にわたる激闘の勝敗が決しました。同年3月、明治天皇は親征のため大坂行幸を断行。その途中、城南宮や石清水八幡宮などに立ち寄りながら鳥羽街道を往復しました。天照皇太神の5文字が金色に輝く錦の御旗を押し立てた大行列は、新時代の幕開けと明治政府の威光を広く知らしめました。

2018(平成30)年は鳥羽伏見の戦い及び明治維新150周年を迎えます。今回の講演を通してこの機会にぜひ城南宮をはじめ、幕末の面影が残る京都・洛南の地を訪ね歩いてみたいと思いました。

京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。

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