京阪・文化フォーラム

第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-

第1部では織田信長が京都ではなく安土に城を築いたことに注目し、天下統一のための構想についてを、第2部では明智光秀とはどのような人物なのか、またなぜ本能寺の変に至ったのかを、それぞれ文献資料を参考にしながら紹介。また、対談ではお互いの講演内容から、信長や光秀の人物像にさらに迫って行きました。

「織田信長像」(重要文化財)桃山時代 大正11(1583)年 古渓宗陳賛 神戸市立博物館

日時
平成25年3月23日(土)
会場
京都教育文化センター(京阪・神宮丸太町駅下車 東へすぐ)

プログラム

奈良大学教授・下坂 守

[講演] 信長の天下統一構想 -安土城と佐和山城・坂本城-
奈良大学教授
下坂 守(しもさか まもる)

奈良大学教授・河内 将芳

[講演] 光秀の虚像と実像
奈良大学教授
河内 将芳(かわうち まさよし)

奈良大学教授 下坂 守

[対談]
奈良大学教授
下坂 守

奈良大学教授 河内 将芳

奈良大学教授
河内 将芳

レポート

中央電気倶楽部
会場風景

例年より早く春の訪れを感じられた3月下旬、「天下統一の夢」と題し、織田信長と明智光秀をテーマに第31回京阪・文化フォーラムが行われました。会場は京都教育文化センター。歴史上の人物の中でも屈指の人気を誇る信長と、その家臣でありながら謀反を起こした光秀についての講演会とあって、期待に溢れるお客さまで会場は超満員となりました。

余りにも有名で研究され尽くしたかのように思われがちなこの2人の人物、実はさまざまな諸説があり、未だ不明な点が多いといいます。信長はなぜ安土に城を築いたのか。また光秀はどうして信長を討ったのか。こういった疑問に対し、文献を紐解きながら可能性のある説を立ててみようというのが今回の講演会の趣旨となります。

■第1部

下坂守教授による講演「信長の天下統一構想 -安土城と佐和山城・坂本城-」

第1部は下坂守先生による講演で、テーマは「信長の天下統一構想」。その内容は「織田信長の危機」、「延暦寺焼き討ち」、「佐和山麓松原の大船」、「安土山御普請」の4つを軸に『信長(しんちょう)公記』などの文献に記された事柄を取り上げ、信長が何を目指して拠点を決め、築城を命じたかを探ります。

桶狭間の合戦で勝利し、美濃(岐阜県)を制した信長は、南近江(滋賀県)の有力大名・六角義賢を破り、将軍足利義昭を奉じて上洛。その後、信長に応じない越前の朝倉義景と、朝倉氏と縁の深い浅井長政が同盟を結び、信長と敵対。それが、信長の最初の危機に結び付く姉川の合戦でした。美濃から京都へと通じる道において近江への入り口となる場所さえ守れば問題ない、と判断した信長は、この付近の佐和山城を重要拠点の1つにしたのでした。

しかしこの後、重要ルートは1つだけではないと気付かされる事件が起こります。信長が京都から摂津(大阪府)へ出陣していたところ、朝倉・浅井の軍が再び南下、今度は琵琶湖の西側を通って比叡山の麓の坂本を占拠します。その勢いで京都へと流れ込むものの、慌てて引き返してきた信長に追いやられ、再び坂本・比叡山麓へと逃げ帰ります。結果としては朝倉・浅井軍と和議を結んだ信長ですが、美濃〜京都ルートを確実なものとするため、近江から京都への入り口にある宇佐山に城を築き、また朝倉・浅井軍に加勢したことを理由に、延暦寺の焼き討ちが行われたのです。坂本の地は光秀に授けられ、坂本城が築かれたのでした。

信長は京都のみを拠点にするのではなく、京都と美濃の両方を治めようとしていました。そのため、両地の中間点に当たる安土に城を築き、安土城を拠点に天下統一を目指そうとしたと考えられています。

下坂守教授による講演風景

しかしながら、光秀による本能寺の変で信長は夢半ばにして自害。10日ほど後に起こった天王山の合戦では光秀が敗死し、さらにその2日後、安土城と坂本城は放火によって焼け落ちてしまいます。まるで信長と光秀の終焉を物語るように、2つの城が同日に焼け落ちてしまった話で、下坂先生の講演が終わりました。

■第2部

続いて第2部は河内先生による明智光秀についての講演「光秀の虚像と実像」です。「その人となり」、「信長との出会い」、「延暦寺焼き討ちと坂本城」、そして「本能寺の変へ」とテーマを設け、光秀の心情とともに信長への思いの移り変わりを辿っていきます。

河内将芳教授による講演「光秀の虚像と実像」

通常思い浮かべる光秀のイメージは、「本能寺の変の首謀者」「信長に信頼されていた優れた武将」「裕福な家の出で若く、当代一の文化人とも交流のあって自身も知的文化人」。しかし、光秀本人を描いた図像は非常に少なく、『フロイス日本史5』などの文献から見てとれる光秀は、少し異なっています。

光秀が文献に登場するのは、やはり信長と出会ってから。信長が上洛した1568(永禄11)年9月26日以降に接点を持ったと考えられます。そのため、出生年・出生地・生家についての正確な記録はありません。ただ、『当代記』巻2では出身は貧しく、年齢については信長よりもひとまわり以上年上であったことが記されています。ただその他の文献によると、雇用されて数年のうちに重要な場面で光秀の名前が見受けられることから、優れた人物だったことは確かなようです。

河内将芳教授による講演風景

光秀に関する資料は、延暦寺の焼き討ち後に増えており、そこからさらに人物像を伺い知れる興味深い記述が出てきます。焼き討ちには反対で、信長を止めようとしたことがきっかけで信長から疎まれるようになった、という説がある一方で、延暦寺の麓を仕切っていた豪族たちとのやりとりを記した『和田家文書』には、率先して焼き討ち工作に取り組んでいたことが表されています。

そんな光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのか。信長に高く評価されていたものの尾張出身者を重用していたことや、羽柴秀吉と比較されていたこと、そこへ実の妹の死が引き金となり、光秀に行動を起こさせていったのではないか、というのが河内先生の導き出した結論でした。

■対談

奈良大学教授 下坂守さんと奈良大学教授 河内将芳さんの対談

対談では下坂先生・河内先生が登壇し、お互いの講演を聞いて質問し合い、意見をくみ交わしてそれぞれの見解を述べていきます。

いくつか挙げられた質問の中で興味深く感じられたのが、信長という人物の破天荒さについて。河内先生によるとこの当時の武将というのは、どんなに気性が激しい人でも神仏を大切にし、いざというときには祈りを捧げていたといいます。しかし信長に至っては本願寺とは対決し、延暦寺の焼き討ちなど神仏恐れぬ行為ばかり。元亀の争乱期を経たことで、極端なまでの実力主義者になったのでは……という想定。また、信長は自信過剰な性格であったうえに実はうっかり者でもあったのではないか、と。そのために自分が部下にきつく当たったこともすぐに忘れて、浅井長政や明智光秀に裏切られる結果になったのでないかという話に。

さらに、安土城の位置付けを鑑みて、もし信長が生きていたら、どんな最終地点を想定していたかという点にも話が及びます。下坂先生の見解としては、琵琶湖を拠点とした安土中心の構成で、それは、近江の陸路を抑えていた佐々木六角氏と対立していた伊庭氏と手を組んだことから想定できるとのこと。伊庭氏は琵琶湖を抑え、安土を拠点としていました。

今回のフォーラムは信長、光秀とも、一般に知れ渡ったイメージとは異なった姿が感じられました。「今日の話をまた思い出し、信長と光秀が何を考えていたか、皆さんも考えてみてください」という下坂先生の言葉で、講演会は締めくくられました。

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