改行

京阪・南海文化フォーラム

真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—

関ヶ原合戦の後、高野山・九度山へ蟄居を命じられた真田幸村。九度山での生活から「大坂の陣」までの歴史を繙き、「日本一の兵」といわれた悲運の名将の実像に迫ります。

真田庵 / 赤備えの甲冑

日時
平成28年11月5日(土)13時~16時
会場
枚方市市民会館

プログラム

大阪城天守閣館長 北川 央

[講演] 「真田幸村~九度山での生活と大坂の陣」
大阪城天守閣館長
北川 央(きたがわ ひろし)氏

阪南大学 教授 来村 多加史

[講演] 「大坂の陣と真田幸村」
阪南大学 教授
来村 多加史(きたむら たかし)氏

レポート

会場外
会場中

天下分け目の戦い「関ヶ原の合戦」の後、高野山・九度山に蟄居(ちっきょ)を命じられた真田信繁(幸村)。九度山での暮らしと大坂の陣までの歴史について、2人の先生をお迎えし、お話を聞きました。悲運の名将といわれる真田幸村とは、どのような人物だったのか。史料をもとに、その実像に迫りました。
今回の講演は、京阪電車と南海電車のコラボ企画の第3弾として開催しました。

■第1部:講演 「九度山での生活と大坂の陣」

第1部の様子
第1部の様子

天下人・豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の対立が表面化し、「関ヶ原合戦」が起こり、勝者となった徳川家康が政権を握ります。一方で、大坂城には徳川家を凌ぐ権威を保持したまま豊臣秀頼が健在でした。この不安定な時代を真田幸村はどのように生きたのでしょうか。

第1部は、大阪城天守閣館長を務める北川央(ひろし)先生が登壇し、豊臣秀吉の死の前後から、関ヶ原合戦への経緯、九度山での幸村の様子などについて、史料に基づいて紹介しました。

1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉が京都・伏見城において、62年の生涯を終えます。当時、息子・秀頼はわずか6歳。秀吉は、大いなる不安を抱えてこの世を去ることとなりました。自身の亡き後の最大の懸念は、徳川家康。ゆえに、秀吉は徳川対策を遺言として残しています。

  • 自身の死後の政治は、徳川家康に委ねる
  • 政治の中心は、伏見城に置く
  • 秀頼は、伏見城から大坂城へ移る
  • 秀頼の後見を前田利家に命ずる

この遺言によって、豊臣政権の主である秀頼は大坂城にいて、天下の政治は伏見城で徳川家康が行うという体制がとられることとなります。

また、秀吉は全国の大名を徳川家と親しい東国大名と、豊臣家に近く、秀頼の後見人となった前田利家と親しい西国大名に二分し、東国大名には大坂城周辺に、西国大名には伏見城周辺に屋敷を構えさせました。こうすることにより、西国大名によって徳川家康の監視をしつつ、東国大名たちは豊臣家や前田家の監督下におくという体制を整えたのです。この時に注目すべきは、真田幸村の父・昌幸です。真田家の本拠地は、信州・上田ですから、東国大名の一員として本来は大坂城下に置かれるべきところ、伏見城下に屋敷を構えさせられます。このことから、秀吉は、真田家を西国大名とみなしていたことがわかります。

秀吉の死後まもなく、豊臣家にとっては頼みの綱であった前田利家が死去。秀吉の願いもむなしく、徳川家康が圧倒的な力を振るうことになります。迎える1600(慶長5)年9月15日、関ヶ原合戦が勃発。その過程で徳川家康による上杉攻めに参加しながら、唯一石田三成方西軍に身を投じたのが、真田昌幸・幸村親子でした。戦線を離脱した昌幸は、上田城に籠城。合戦の地である関ヶ原へ向かわんとする徳川秀忠の軍勢を足止めし、秀忠を関ヶ原本戦に遅参させました。このことは秀忠のキャリアにぬぐうことのできない傷をつけただけではありません。秀忠軍には徳川譜代の大名たちが属していましたので、家康は福島正則や黒田長政、細川忠興らの奮戦により、ようやく勝利を得ることができたのです。関ヶ原合戦は、徳川軍の大勝利となりましたが、活躍したのは豊臣譜代の大名たちという徳川家にとって皮肉な結果となるきっかけを作ったのが昌幸だったのです。

合戦後、高野山へ蟄居するよう命ぜられた昌幸・幸村は、まもなく麓・九度山に移り、ここで辛い日々を送ります。北川先生は、当時実際にやり取りされた書状をもとに、その実態を紹介。莫大な借金を抱え、気力も体力も衰える真田昌幸・幸村親子。昌幸が亡くなった際にも、昌幸は徳川幕府にとっては罪人のままでしたので、きちんと弔うこともできなかったようです。しかし、大阪冬の陣勃発に奮起した幸村は、九度山脱出を試みたのです。雄弁に物語る先生のお話は、歴史のさまざまなシーンがよみがえるようでした。

■第2部:講演「大坂の陣と真田幸村」

第2部の様子
第2部の様子

第2部は、阪南大学教授・来村多加史先生の講演です。九度山での苦しい暮らしを続けた14年目、豊臣秀頼・淀殿に迎えられた真田幸村は、大坂城へ向かいます。冬の陣、夏の陣と呼ばれる2回の合戦後、豊臣政権は滅亡しますが、2つの戦いの戦法、布陣はいかなるものだったのか。「真田丸」とはいかなるものだったのか。わかりやすい図と写真で解説されました。

大坂冬の陣が起こったのは、1614(慶長19)年。豊臣秀頼の命により造られた京都・東山に建つ方広寺の鐘。そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家を呪うものであるという“言いがかり”から戦いが始まります。

九度山での生活は困窮を極めたと伝わりますが、狩りや川遊びをしたり、和歌山城下へ碁を打ちに出かけたというエピソードなどから、幸村は案外居心地が良かったのではないかとのことでした。実際に幸村はここで多くの子女たちに恵まれています。

大坂城の立地として注目したいのが「上町台地」です。大坂城を先端として、大阪平野の南側から長く伸びる台地で、この台地に建っているからこそ、大坂城からは大阪平野を見渡すことができ、逆に平野からはどこから見ても城が見えるというこれ以上ない立地であることがわかります。ただし、この立地の弱点は南側。秀吉は、城の南側に寺町を造営し城の守りとしていました。

来村先生は、中国への留学経験もあり、古代の戦法などをよく研究されており、大坂城の堀の掘削方法や戦略について詳しく解説されました。1カ月に渡る冬の陣は、籠城戦でした。豊臣時代の堀が鉄壁だったからです。問題となるのは、やはり南側。その位置に、幸村は「真田丸」と呼ばれる出城を作ります。

なかなか陥落しない大坂城。業を煮やした家康は、欧州製の大筒で本丸を狙います。聞いたこともない轟音に屈した秀頼・淀殿は、ついに和議を締結。大坂城の鉄壁の守りである堀をすべて埋めることを条件に、冬の陣は終結しました。事実上の降伏でした。

勢いある徳川勢は、瞬く間に堀を埋めてしまいます。丸裸になった大坂城が、再び襲われるのが、翌1615(慶長20)年。大坂城をめぐって戦いが繰り広げられた冬の陣に対して、郡山城の戦い、堺の戦い、八尾若江の戦いなど、広い地域でたくさんの前哨戦がありました。徳川軍16万に対して、豊臣軍7万8千。無数の鉄砲が火を噴き、戦国最後にして最大の戦いと称されるほど、多くの犠牲者が出た戦いでした。先生はパワーポイントのアニメーションを駆使されて、戦国大名たちの必死の戦いを説明されました。その戦いでの、幸村の勇ましい姿は誰もが知るところでしょう。

講演では、諸説ある「真田丸」の場所について、専門領域の観点から解説されたほか、「真田丸」の名残りを感じることのできる史跡も多く紹介されました。また、空堀の跡地である「からほり商店街」など、当時の地形が残る現在の地名がたくさん登場。地元・大阪の新しい見方を知ることができました。

京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。

バックナンバー
第43回 明治維新と東海道五十七次
第42回 花と建築 建築と華
第41回 今、なぜ明治維新なのか。〜西郷どんの実像〜
第40回 東海道五十七次と大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い
真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—
第38回 国宝 石清水八幡宮本社
真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!
第37回 馬と人間の歴史
第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦
第35回 中世の京都町衆と祇園祭
第34回 彩られた京都の古社寺
第33回 水辺の歴史 大川沿いにある大坂の陣戦場跡
第32回 神に祈った武将たち -石清水八幡宮と源平・足利・織田・豊臣・徳川-
第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-
第30回 信仰とお笑いの狭間に落語
第29回 平清盛と平家物語
第28回 葵祭
第27回 酒は百薬の長 落語は百楽の長
第26回 今に生きる熊野詣
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