京阪・南海文化フォーラム

真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!

激戦が繰り広げられた「大坂の陣」。当時、絶大な権勢を誇っていた徳川家とその軍勢に対し、劣勢の豊臣方を支えたのは真田幸村(信繁)でした。幸村が大坂城に築いた出城「真田丸」を解明しその戦略に迫るとともに、真田幸村の実像をつまびらかにします。

日時
平成28年2月27日(土)14時〜16時30分
会場
枚方市市民会館

プログラム

城郭考古学者/奈良大学 学長 千田 嘉博(撮影:畠中 和久)

[講演]
真田丸と大坂の陣
−真田信繁はなぜ真田丸を築いたのか−
城郭考古学者/奈良大学 学長
千田 嘉博(せんだ よしひろ)氏

歴史研究家 真田 徹

[講演]
幸村の子孫が語る
「真田幸村 虚像と実像」「大坂の陣後の幸村の子女達」
歴史研究家/幸村第14代・仙台真田家第13代当主
真田 徹(さなだ とおる)氏

レポート

会場外
会場中

大坂の陣に豊臣方の将として参戦し、その奮闘ぶりから「日本(ひのもと)一の兵(つわもの)」と称えられた真田幸村こと信繁。関ヶ原の戦いでは信州上田城で徳川の大軍を撃退し、大坂夏の陣でも徳川家康本陣に突撃してあと一歩まで迫りました。今回、大阪・和歌山に幸村ゆかりの地が数多く残ることからも、京阪電車と南海電車のコラボ企画として開催されました。現在放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」でも注目される旬のテーマということもあり、会場の枚方市市民会館は1,100名を超えるお客様で満席に。会場内は終始熱気に包まれ、真田人気の根強さを改めて感じることができました。

■第1部:講演 「真田丸と大坂の陣 -真田信繁はなぜ真田丸を築いたのか-」

第1部の様子
第1部の様子

1614(慶長19)年に勃発した大坂冬の陣において、真田信繁が大坂城の出城として築いた「真田丸」。信繁はここで20万もの徳川勢を相手に奮戦し、天下に武名を轟かせました。第1部は城郭考古学がご専門の千田嘉博先生が登壇し、戦国最強の要塞・真田丸の実態と、信繁がなぜ真田丸を築いたのか、その意味について鋭く迫りました。

さて、天下人となった豊臣秀吉が築いた初代大坂城は、南以外の三方を河川に囲まれ、町全体を惣構(そうがまえ)と呼ばれる堀と土塁で囲った鉄壁の防御能力を持つ近代城郭でした。城の主要な出入口には石垣や塀で囲んだ「馬出し」と呼ばれる出撃拠点を備え、まさに攻守に長けた最強の構えになっていました。

その難攻不落の大坂城で唯一の弱点であった南東側に築いたのが真田丸。位置は現在の大阪市天王寺区にある三光神社周辺、惣構のすぐ外側にある半円形の馬出しであったというのが従来の定説でした。しかし、広島藩・浅野家に伝わる「摂津真田丸」図などをもとに調査を重ねた結果、これまでとはまったく異なる真田丸の姿が明らかになりました。千田先生によると、

  • 真田丸は大坂城との間に幅200mもの自然の谷が横たわる孤立無援の場所に築かれた
  • 形は半円形ではなく、東西約220mに及ぶ本丸と背後の守りを固める曲輪(くるわ)を配置した二重構造。位置は、現在の大阪明星学園を中心にした一帯
  • 真田丸内部は上下2段に分かれ鉄砲で反撃できる塀や石落としの仕掛けなど、敵を撃退するための細かな工夫が凝らされていた

など、新しい見解を次々と提示しながら、真田丸は大坂城に従属した単なる防衛拠点ではなく、籠城作戦では勝てないと考えた信繁があえて城外に築き、敵をおびき寄せて接近戦に持ち込むための独立した「攻めの城」であり、局地戦の勝利を徳川との外交交渉のカードにしようと考えていたのではないかと結論付けました。

「少勢で大軍に勝つ」―。真田丸の戦いは、信濃の小領主にすぎなかった父・真田昌幸が上田城攻防戦で用いた引き付け戦法をさらにスケールアップさせて挑んだ一大決戦でした。圧倒的に不利な立場から“いかに勝つのか”を考え抜いて実行した信繁は、まさに知勇を兼ね備えた「日本(ひのもと)一」の名にふさわしい名将であったと講演を締めくくりました。

■第2部:講演「幸村の子孫が語る『真田幸村 虚像と実像 -大坂の陣後の幸村の子女達- 』」

第2部の様子
第2部の様子

第2部は、幸村第14代・仙台真田家第13代当主であり、歴史研究家の真田徹さんによる講演です。真田さんは幸村の子孫という立場から、真田一族のルーツや後世に伝説化された幸村の生涯と実像をひも解きました。

もともと真田氏は信州・真田郷を拠点にする土豪で、東信濃の名族・海野氏の一族であったそうです。幸村の祖父・幸隆の時に姓を「真田」とし、その息子・昌幸(幸村の父)は武田信玄・勝頼父子に仕えた後、織田・上杉・北条・徳川と主家を転々とし、1583(天正11)年に上田城を築き居城としました。昌幸はここで2度に渡り徳川軍を退け全国に真田の名を知らしめます。しかし、西軍に属した関ヶ原の戦いでは徳川方が勝利し、昌幸は幸村とともに高野山の九度山へ蟄居(ちっきょ)、そこで生涯を終えました。

九度山での生活は困窮を極めたと伝わりますが、狩りや川遊びをしたり、和歌山城下へ碁を打ちに出かけたというエピソードなどから、真田さんは案外居心地が良かったのではないかと述べました。実際に幸村はここで多くの子女たちに恵まれています。

昌幸の死後、幸村は豊臣秀頼の招きで大坂城へ入城。父の教えもあり出撃策を献策しますが聞き入れられず籠城策に従います。ここで幸村にもう少し政治力があれば戦局は大きく違ったはずと真田さんは悔やみます。こうして世にいう真田丸での攻防戦に臨み徳川軍に大きな損害を与えますが、戦後の和議で真田丸は破壊。翌年、大坂夏の陣が起ると幸村は家康本陣に突入するなど奮戦しますが天王寺口で壮絶な最期を遂げ、長男・大介も殉死しました。残された子女たちは伊達政宗の重臣・片倉小十郎に保護されるなどして生き延び、仙台真田家の祖となった次男・大八をはじめ後世にその血筋が受け継がれました。

徳川家康を追い詰めた幸村の活躍は、後に英雄として講談や軍記物語に描かれ、幸村生存説や家康戦死説を生み出しました。こうした伝説の成立過程には、人々の心をとらえて放さない幸村の見事な生き様が垣間見えます。悲運の武将とも言われる幸村ですが、本フォーラムを通して、類まれな戦術眼と知謀を駆使して乱世を力強く生きた新たな人物像が生き生きと浮かび上がってくるように感じられました。

京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。

バックナンバー
第40回 東海道五十七次と大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い
真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—
第38回 国宝 石清水八幡宮本社
真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!
第37回 馬と人間の歴史
第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦
第35回 中世の京都町衆と祇園祭
第34回 彩られた京都の古社寺
第33回 水辺の歴史 大川沿いにある大坂の陣戦場跡
第32回 神に祈った武将たち -石清水八幡宮と源平・足利・織田・豊臣・徳川-
第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-
第30回 信仰とお笑いの狭間に落語
第29回 平清盛と平家物語
第28回 葵祭
第27回 酒は百薬の長 落語は百楽の長
第26回 今に生きる熊野詣
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